「慈悲深い人」「無慈悲な行い」などと使われる「慈悲」という言葉は、仏教の用語です。 わたしは、釜ヶ崎で出会った苦しむ人々に寄り添う僧侶から紹介された『慈悲』(中村元 著)を手にして驚きました。キリスト教の「隣人愛」と根本において変わらないのではないかと思ったのです。 宗教の教えは色々ありますが、究極のところは同じようなところに行き着くものだと感じます。 同書は、慈悲が仏教の根本だというだけあって,、仏教全般の説明とそこでの慈悲の位置づけでもあり、仏教の歴史、日本の仏教を学ぶにも格好の書だと感じました。 私たちは自分自身を大切にします。他人も私たちと同じように自分自身を大切にしているはずです。私たちがそのような他人を大切にするすることは自分自身を守ることです。他人もまた同様です。仏教にはこのような倫理があります。 その上で、『慈悲とは自己を捨てて全面的に他の個別存在のために奉仕することである』『他の個別存在のために全面的に帰投するということは、自己と他者の対立が撫無される(なくされる)方向においてのみ可能である。』とします。 というのも、私たちは、自分自身を含めて他人も限りある命を生きています。自己も他者も「空」(もろもろの事物は縁によって成り立っており永遠不変の固定的実態がない(広辞苑))であると言えます。この空感によれば、(私たちの存在が時間的にも空間的にも限られたものであるということを客観的に見れば、)自己と他者の対立は否定されます。『慈悲は空感によって実現されるのであるから慈悲の実践をなす人は自分は慈悲を行っているのだ」という高ぶった、とらわれた心があるならば、それはまだ真の慈悲ではない。』『すなわち現象的な自己を無に帰したとき、慈悲が絶対者からあらわれるのである。そうして慈悲行は個我のはからいではなくて、個我を超えた絶対者から現れ出るものなのである。』 そして同書の結語には「慈悲」を次のようにまとめられています。 『慈悲の実践はひとが自他不二の方向に向って行為的に動くことのうちに存する。それは個々の場合に自己をすてて他人を生かすことであるといってもよいであろう。もしも単に自己を否定するというだけであるならば、それは虚無主義とならざるを得ない。これは現代における有力な思想傾向となっているが、自他不二の倫理はそれの超克をめざすものである、と言ってよいであろう。それは個別的な場合に即して実現さるべきものであるが、しかも時間的・空間的限定を超えた永遠の意義をもって来る。それは宗教に基礎づけられた倫理的実践であるということができるであろう。 かかる実践は、けだし容易ならぬものであり、凡夫の望み得べくもないことであるかもしれない。しかしいかにたどたどしくとも、光りを求めて微々たる歩みを進めることは、人生に真のよろこびをもたらすものとなるであろう。』 「僧侶の本来の姿は苦しむ人々への寄り添い」。これは仏教の宗派をこえた全日本仏教会の理事長石上智康(浄土真宗本願寺派の総長)さんの言葉(2016/8/1朝日新聞「人」欄)です 僧侶ではありませんが、宮沢賢治は、先祖からの浄土真宗の家柄で、幼い時から「正信偈」「白骨の御文章」を唱和し、母イチからはいつも「人のために尽くすことの大切さ」を聞いていました(宮沢賢治記念館)。賢治の「雨にも負けず」には、『あらゆることを自分を勘定に入れずに』と自分をなくし『東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い・・・・』と具体的な行いをするのです。これが仏教の精神です。慈悲ともいえます。賢治は「そういうものにわたしはなりたい」結びます。