日本盲人キリスト教伝道協議会 発行 点字キリスト教月刊雑誌『信仰』(2013年7月号)巻頭メッセージ 「釜 ヶ 崎 か ら」 大阪には釜ヶ崎と呼ばれる日本一大きな寄せ場があります。 大阪万博(1970)があった頃は、朝5時に、ここから毎日1万人の建設労働者が日雇い労働の現場に向かいました。 しかし、現在、現場に向かう建設労働者は一日に千人もいません。住民の高齢化が進み、住民2万人の内1万人弱の人が生活保護を受けて生活しています。 その一方で、65歳以上の高齢者で生活保護を受けることができるのに、まだ、野宿をしたりシェルターで泊まったりして生活する人が500人ほどいます。理由はさまざまです。多くの場合、「健康なうちは頑張って働きたい」という答えが返ってきます。 しかし、本音は、親兄弟には知られたくないということや世間の偏見による暗黙の差別です。最近はこの風潮が酷いために、生活保護を受けずに病気が進行しも手遅れになっているケースもあります。 私が、この街に関わりを持ったのは2001年からです。サラリーマン時代は、日曜日に礼拝に出席する、応分の献金をする、教会の奉仕には進んで参加するという教会3点セットをこなすのが精一杯で、「宣教しよう」と言われても、何をどうすればよいのか、神の国、永遠の命が何を意味するのか分かりませんでした。会社の定年になる1年前に「小さくされている人の側にこそ主はおられる」という言葉に誘われて一人で釜ヶ崎に行きました。 友人には、本心はともかく、キリスト教精神を発揮し、あわれでかわいそうな人達に奉仕することは素晴らしいと言う人もいます。しかし、私自身は、どのようにして受け入れてもらえるか不安でした。と言うのも、上から目線で、何かしてあげようというという態度は、労働者にすぐに見透かされます。最悪の場合は、「こら、偽善者、帰れ!」と言われかねません。 労働者は、誰にも迷惑をかけずに、きつい、汚い、危険な労働に耐えてきた人達です。炊き出しの列に並んでいるところなど娘には決して見られたくありません。自分で稼いだお金で食べたいのです。キリスト教の団体で組織する「釜ヶ崎キリスト教協友会」は、規約で「伝道しない」と決めています。釜ヶ崎のフランシスコ会「ふるさとの家」には、野宿して頑張っている人に50円で袋ラーメンを買ってくれば、自分で炊いて食べられる、鍋、コンロ、丼、箸が準備されています。また、詰所には、全国の支援者からのマスク、カイロ、爪切り、1回分の洗剤、歯ブラシ、傷テープ、綿棒、針と糸、剃刀、タオル、石鹸、申し込んでおけば衣服、靴、カバンなども提供されます。1日30人の散髪もあります。労働者の自立を支えているのです。 労働者は、あのビルの建設に関わったとか、あそこの橋、地下鉄、道路を作ったとか、高度成長期に活躍したことが自慢です。人に迷惑をかけず身体だけを頼りに生きてきたのです。困っている病気の友人がいると自分のことのように病院を探します。わたしは、寒そうにしていれば自分の良い方のジャンパーを差し出す元現場の親方を知っています。 アルコール依存症の人が決意して、遠くにある精神病院で治療するためにご一緒するときには、戦前、父親が死に小学校3年生の時から働いたという人や、継母にいじめられ食事も十分でなかったという人の話を聞くとき、恵まれている私自身が恥ずかしくなります。彼らは、弱いものを蔑ろにする世の不条理や差別には激しく抗議します。世に正義が実現していることを望んでいます。 神様は、いつも苦しむ人と共にいます。そして、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25;40)しなかったのは、わたしにしてくれなかったことである、と言われるのです。 イスラエルの宗教の原点は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出エジプト3:7)と、苦しむ人の現場を知っている神です。イエスは、嫌われていた徴税人や病人、宗教指導者から罪人と烙印された人と共にいて、苦しむ人の現場を知っていました。イエスは、正義と平和と喜びの実現のために来たのです。 私が好きな聖書のユーモアは、ルカによる福音書の「不正な管理人」のたとえ(ルカ16:1)話です。不正な管理人とはイエス自身のことではないでしょうか。主人である神様の財産とはイスラエルの社会の宗教秩序であり、 管理人の不正を訴えたのはイスラエルの宗教指導者(律法学者、ファリサイ派の人々、祭司)です。訴えられた管理人は、主人に油100ポトス、小麦100コロスの借りがある人の証文を書き換えて少なくし友達にします。借金ではなく油や小麦という性質の異なった品物の借りは、この世の困難の多様性を示します。不正な管理人イエスは、宗教の指導者に掟、律法に反し罪があると言われ疎外されていた罪人である病気の人、貧しい人に、「あなたの罪は赦された」と言ったのです。主人である神様が、不正な管理人イエスの巧妙なやり方を褒めるはずです。 私たち現代の教会が、当時の宗教の指導者の立場になってはいないでしょうか。イエスは、神様の思いを行ったのです。この世に生を受けた者が誰一人捨て置かれることがないようにと。 (一部加筆しました) <参考> ルカによる福音書 第16章1−8a節 不正な管理人 (1)イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。(2)そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』(3)管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。(4)そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』(5)そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。(6)『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』(7)また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』(8)主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。