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1999年5月30日(三位一体主日・聖霊降臨後第1主日)

 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・・・・・男と女に創造された」(創世記1章26−27節)

 文型上では神話的語りでの創世記1章(本主日の旧約日課)でありますが、これはBC6世紀から5世紀前半にイスラエル民族において成立した文書です。

 新バビロニヤ王国の侵入で国を失ったイスラエル民族は混沌と暗闇の中に突き落とされましたが、ここで彼らは自己の存在を問い、その答えを神との関係において発見しようとしました。

 「光あれ」と言って光を造り、人を男女に創造された神は、ご自身を「他社のない孤独から愛の交わりに開く」存在とし、人を「無の混沌から救い出され、交わりの愛の対象」(関根清三)として、さらに「地に満ちて地を従わせよ」との命に服させ、神に応答させようとされたと考えることが出来ます。

 「初めに、神は天地を創造された。」(1:1)と言う語り出しは、新たな創造の力の根源である神に寄せる賛美と信頼の言葉です。(詩編33:1−6、148:1−6、イザヤ書40:21−26)

 そして新約聖書はイエスのみ業(癒し、死、復活)がこの神の新しい創造、新しい救いの完成であると宣教し、神を賛美します。(例・ヨハネ黙示録5:12)

 これが私たちの賛美と感謝の礼拝であります。

1999年6月6日(聖霊降臨後第2主日)

 「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」(マタイによる福音書 9章10節)

 ローマ帝国領地内のユダヤ、サマリア地方ではローマ皇帝に、またガリラヤ地方では領主ヘロデ・アンティパスに通行税や市場税などといった間接税を、徴税請負人がユダヤ人同胞から取り立てていました。

 そして彼らはしばしば納税すべき額以上の金額を同胞に要求して私的利益を得ていました。

 それで同胞からは罪人として激しく憎まれていたのです。

 ところがイエスは彼らにも神の国の福音を宣教し、この福音を受け入れ、また弟子となるように勧めました。

 こうしてマタイは使徒となり、徴税人の頭のザアカイはエリコでイエスの教えに感動して改心しました。

 このようにイエスが説く福音によってユダヤ教律法では罪人と厳しく裁かれた者までもが神の国に招かれました。

 福音は人々を律法から解放します。

 「ローマの信徒への手紙」4章はユダヤ人に対して、今後は律法によらずイエスの福音を信じて生きよと熱心に勧め、この人生の選択を先祖アブラハムの信仰から学ぶようにと説得します。

 イエスの福音はすべての人にとって神の恵みであります。

 そのために大切なのは信仰であります。

1999年6月13日(聖霊降臨後第3主日)

 「御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、・・・・・」(ローマの信徒への手紙 5章10節)

 ユーゴスラビア連邦ミロシェビッチ大統領はようやく米欧ロシアの和平提案を受諾しましたが、ここにはロシア大統領特使やフィンランド大統領による和平交渉の功績を無視できません。

 しかしこの和解にはさまざまな利害関係が潜んでおります。

 米英を中心とした北太平洋条約機構(NATO)もユーゴスラビア連邦大統領もこれが完全な和解であるとの確信を持ってはいません。

 人間同士、国家間などのの和解はこのように完全なものではなく限界があります。

 ところが新約聖書は神と人間との和解は「キリストがわたしたちのために死んでくださったこと」(ローマ5:8b)によるもので、これは神による神と人間との契約の更新であると語っています。

 人間が神と和解し、滅びより救出されるためにはキリストの血の犠牲が絶対的な条件であり、これこそ神の愛また神の恵みであると聖書は力づよく宣教します。

 「あなたが造られた世界の面にはびこる人間の無秩序さに気付きました。あなたのみ心は被造物すべてがあなたと和解し、調和をもって生きること」とは世界キリスト教協議会第一回総会(1948年、オランダ)での祈りです。

1999年6月20日(聖霊降臨後第4主日)

主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、私の心の中
 骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
(エレミヤ書 20章9節)

 エレミヤはアッシリアによる北王国イスラエルの滅亡(BC722)の後、南王国ユダがバビロニアに侵略される危機にあって《神に捕らえられた者》として神に召され、人々の非難と復讐に苦しめられながら預言者として活動しました。

 人々が無知によって自分たちの滅亡の運命を自覚しないとき、神は預言者を用いてこれを警告し、救いの道を告知されました。

 アルバート・シュバイッアー(1875−1965)は

  1. 無制限な欲望の追求は人間を幸福にさせない。
  2. 利己的利益を追求する社会は官僚によって支配される。
  3. 経済的進歩は豊かな人間集団と貧しい人間集団との隔たりをより拡大し、これらが文明を消滅させる。
と論じ、また「超人」となった人間はそれに見合った理性の水準に達せず、かえって非人間的になるものだと警告しています。

 「キリストー世界の希望。私たちはこの希望を再び求めます。十字架につけられ、力のうちに復活された命がけの希望が、私たちの前にあります。」(世界キリスト教協議会1954年第2回総会での祈祷文より)

1999年6月27日(聖霊降臨後第5主日)

「あなたに十字架の形を記します。これはキリストのしるし、・・・・・永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、罪とこの世の悪の力に向かって戦うことを表します。(聖公会祈祷書「洗礼」281頁)

 洗礼に授かった直後、その人の額には上記のように十字架の形が記されますが、これは洗礼がキリストの死を体にまとうこと(・コリント4:10参照)であります。

 洗礼とは「水に浸され切ること」(青野太湖)、死の大水に襲われること(・サムエル22:5)を潜在的に意味します。

 そこでパウロは「キリスト・イエスへと洗礼を受けた私たちすべては、彼の死へと洗礼を受けたのだ」(ローマの信徒への手紙6:3,青野訳)と語ります。

 そして、これが洗礼を受けた者が「命の新しさによって歩む」(青野訳)ことになるのです。

 洗礼の恵みとは自分の全存在をキリストの死と復活の命による存在者とすることであります。

 従ってこれはイエス・キリストによってしか起こり得ないことであり、「永遠にキリストのものとなる」ことであります。

 そこで「キリストにあって一体とされたことを感謝します。」(聖公会祈祷書、「洗礼」ー迎え入れー)と唱えるのです。

 キリスト教はこのことをサクラメント(ムステリオン、秘跡)と言っているのです。

1999年7月4日(聖霊降臨後第6主日)

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります(ローマの信徒への手紙 8:6)

 全世界の聖公会の広報誌「アングリカン・ワールド」最近号は各地域に発生している婦女子に対する性的虐待について詳しくその惨状を報告しています。

 そこには《売春斡旋業者が殺害した19歳の売春婦、その3週間前の姿》と説明書きのある写真も掲載されています。

 そして記事は「教会は売春婦に冷淡で、彼らを受け入れようとしない。教会は審判者か自己義認で身構えている」と教会に反省を促しています。

 多くの売春と子供の虐待は貧しい女性が辛うじて生き延びるための手段であって、暴力団組織がその背後に介在しています。

 教会はこのような事態の真相を正しく認識し、彼らを急ぎ救済しようといま活動を始めています。

 使徒パウロは「善をなそうと思う自分にはいつも悪が付きまとっているという法則に気付きます」と言い、そのような自分を「なんと惨めな人間か」と嘆き悲しみます。

 しかし彼は霊の法則によって悪から解放されて心から歓喜し、神に感謝します。

 「肉の思い」とは他人を冷淡に裁き、自分を正しい人間であろうとする心の習慣であり、そうした態度であります。

1999年7月11日(聖霊降臨後第7主日)

「大勢の群衆がそばに集まってきたので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。(マタイ福音書 13章2節)

 主イエスは神の国の福音を宣べ始められた最初の頃、ガリラヤ地方の人々から大変な人気を得ました。

 しかし主は群衆と対面する形で宣教し、神の国を待ち望むことの厳しさを説きました。

 このことを本日の福音書は「種を蒔く人」のたとえで説明しています。

 主イエスのみ言葉を聞き、それを受け入れ、またそれを行う人には神の国の秘密が開示され、それが豊かに結実する。

 一方み言葉を受け入れない人はこのたとえの意味すら理解できず、神の国に迎え入れられないーーとこのたとえは教えています。

 次に福音書は初期の教会の福音宣教の働きはたしかに徒労に終わることが多いが、神はこの宣教に豊かな実りを与えてくださる。

 だから、思慮不足や不熱心、また迫害や財産への未練によって神の国を見失うことがないようにと教えています。

 この18節以下の言葉はユダヤ教徒やローマ皇帝による迫害に苦しんでいる教会にとって励ましを与えるものでした。

 私たちもこのイエスのみ言葉によって苦難や試練によく耐えるよう信仰を訓練しましょう。

1999年7月18日(聖霊降臨後第8主日)

主人は言った。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。(マタイ福音書 13章29、30節)

 日課(マタイ福音書13章24以下)は80年代の初期キリスト教会の状況を伝えています。

 エルサレムを追放されたユダヤ人キリスト教徒は北上しシリヤ地方に移住しました。

 この地では500年前からユダヤ人にローマから宗教上の特権も与えられていました。

 そこでキリスト教徒の数も増えつつあり、ギリシャ語を日常語とするユダヤ人と異邦人によって教会が形成され、ユダヤ教の会堂とは別の場所で礼拝を行うようになりました。

 この福音書は主イエスがユダヤ教徒と激しく論争された場面を反映させて、神の国の統治は主イエスによって確実に実現されつつあり、この終末ときの神の審判を待つようにと苦難に耐える教会を励ましています。

 「毒麦のたとえは」はこうした状況下、主イエスのみ言葉として語られました。

 私たちもいまのとき、人々が気付かないでいるときの神の国が現実のものとなりつつあることを信じて信仰上の不純分子を徹底的に浄化する神の審判が下されることを厳粛に認め、裁くことをせず互いに信仰を励ましましょう。

1999年7月25日(聖霊降臨後第9主日)

「天の国はからし種に似ている。・・・・・成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ福音書 13章32節)

 思いもせぬ厳しい運命が突然に襲ってきて、人生を翻弄することがあります。

 神の堅い守りと祝福が約束されていると信じきっていた古代イスラエルの民も紀元前6世紀にはバビロニヤの侵入によって離散の民と一変し、その悲しい運命を嘆き絶望しました。

 この苦難のとき、主の預言者たちが活動し真実の支配者であられる主なる神は人間の運命を逆転させ、主の民を救われると語って失意の民に向かって、救い主(メシア)を待望せよと励ましました。

 マタイ福音書は預言者エゼキエルの言葉(17章23、24節、31章6節)を想定しつつ、主イエスの福音が一見からし種のようにごく小さなもののようであっても、それが天の国の偉大な恵みをもたらすのであると信じて苦難に耐えよと信徒一同を励ましました。

 主のこのみ言葉をいま聞く私たちも主の福音が小さく力のないものと疑ってはなりません。

 み言葉の種はあたかもからし種のようにどの種よりも大きな実りをもたらし、私たちをみ国に招き豊かに報いて下さいます。


1999年8月1日(聖霊降臨後第10主日)

「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(ローマの信徒への手紙 8章37節)

 主イエスは故郷ナザレで受け入れられず、またユダヤ人政治権力者の領主ヘロデには恐れられていました。

 そこで主イエスは騒ぎが起こるのを避け、しばらく人里を離れようとしました。

 しかし、群衆はなおも主を見失うまいと主の後に従いました。

 主イエスは一人一人を救われるだけではなく、大勢の群衆をも救い彼らを天のみ国へと導き、神の恵みによって養おうとされました。

 このことを5000人や4000人に食べ物をお与えになったという出来事で福音書は伝えているのです。

 この世の支配者が権力をもって民衆を治めようとするのに対し、主イエスは弱さと罪に苦しむ群衆をありのままに受け入れ、彼らを慈しみ、彼らの心に神の愛を注ぎこんで勇気づけ、主を信じ、主に従うように導かれました。

 福音書はこうした群衆が主イエスと一緒であれば平和を得ること、また天のみ国(神の国)に招き入れられることを宣教しています。

 私たちも主に養われる群衆の中の一人としてイエスに従い、神の救いのみ業に参加し、この福音を宣教しましょう


1999年8月8日(聖霊降臨後第11主日)

「あなたの死者たちは生き返り、あなたの屍は甦ります。覚めよ、そして喜べ、塵に住む者よ。」(イザヤ書 26章19節)

 教会は「天国と地獄」に強い関心を持って、神の「怒りの日」(哀歌2:1 エゼキエル書22:24)こそ神の最後の審判の時であると教えてきました。

 そこで人は生きている内に罪を悔やんで神に赦免を願い、善行に励んで永遠の至福の恵みに至る天国に招かれるか、それとも永遠の滅びにつき落とされるか、それはその人の行いの結果であると言います。

 その一方教会は《信仰によって義とされる》ことを強調し、善行よりも救い主キリストを信じて、愛の行いに励むことを私たちに勧めています。

 こうしてキリスト教の教えには矛盾があり、神学的に私たちを十分に納得させてはおりません。

 しかし、イザヤ書は苦境にある人間に、世界はいま神による救いの未完成段階、しかも神の審判が切迫している、だから塵の中に住む者よ、目を覚まして神の審判による救いを喜び歌えと叫んでいます。

 現代社会には不正義、暴虐が充満しています。

 正義は貫徹されず平和が絶えず脅かされています。

 私たちはキリストによる「神の義」の完成を祈り、平和の福音を宣教しなければなりません。


1999年8月15日(聖霊降臨後第12主日)

そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた(ヨハネによる福音書 20章19節)

 1945年8月15日正午、天皇の「戦争終結の詔書」が放送されたとき、戦災で家を焼失した私は両親と福井県内の上池田村に避難していました。

 敗戦を知った私たちはしばし茫然としました

 これで一挙に日本が平和な国になるとは思えず、私たちは激しい不安と恐怖に心が閉ざされました。

 さて、主イエスが十字架につけられた「その日」から三日が経過しましたが、主の弟子たちは十字架の刑罰に連座して処刑されはしないかと恐れ怯えていました。

 しかも彼らは「主の戦いの立ち会い人」(K・バルト)となるには明らかに失格者でしたから、もう主イエスの弟子として神に救いを求めることも出来ませんでした。

 しかし、このとき復活の主が彼らに現れて「あなたがたに平和があるように」と語りかけたとヨハネは記します。

 主が彼らに与える平和とは死の向こう側から、その死に勝利した平和でした。

 そして主は「聖霊を受けなさい」と言って彼らに息を吹きかけ、この神の霊をもって彼らに平和を与えられました。

 これは私たちにも賜る神の霊、主の平和であります。


1999年8月22日(聖霊降臨後第13主日)

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。・・・・・すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。」(ローマの信徒への手紙 11章33,36節)

 パウロは神の救いは私たちの理解に逆説的であると主張します。

 神の知恵は《十字架の愚かさ》(・コリント1:18)にあり、さらに神の憐れみは私たちの不従順に働くと彼は言います。(ローマ11:32)

 なお、この不従順とは神のイエスにあって示された救いの業に対する人間の不信仰を意味します。

 私たちは生きていくために国や世界の政治や財政に大きな関心を持ち、これに自分の運命、幸不幸を賭けようとします。

 ドイツの牧師C・ブルームハルト(1842−1919)は国家の政治を通してもみ国を実現されると信じ、州議会の議員になりましたが、政治活動を決して主要な関心事とはせず、現実生活から離れた《静けさ》を大切にし《み国が来ますように》と神に心を開き真剣に祈りました。

 彼は地上の苦悩、悪、不合理、それはみな神のみ国が来ることですべて覆われると確信して、喜びや希望の源を神のみ業に現れることに置きました。

 だから人間の働きを越えた神の富、知恵、知識を賛美することが大切なのです。


1999年8月29日(聖霊降臨後第14主日)

「あなたの御言葉は、わたしのものとなり、私の心は喜び踊りました。」(エレミヤ書 15章16節a)

 西暦紀元前7世紀、イスラエルの預言者エレミヤは常に自分の生き方を吟味し、自分と闘って預言した人です。

 当時王国ユダの王ヨシヤは異教神の像を神殿から排除し、宗教上の改革を行って新バビロニヤ王国とエジプト王国に比肩するする強い国づくりを試みました。

 エレミヤはこの王の政治に協力し全民族の再統一のため唯一の神、主に立ち返るよう預言しました。

 しかし、エレミヤはその後になっては、主なる神はユダヤ教の枠を越えて、すべての人に《新しい契約》を結ばれる神でいますと預言しました。

 ユダ王国の滅亡を経験した彼は民衆の望むエジプト行きにやむなく同行しましたが、彼らの深刻な苦難を理解しつつも、厳しい神のみ言葉を伝えることに努めました。

 エレミヤは自分の出生を呪うほど悩み、また孤独の人生を送りました。

 しかし、彼は40年間、預言者としての生涯を送り、儀礼や律法、また慣習に支えられていた古代の宗教によらず、神は人に大切な自由と尊厳を回復させる方であり、国々を滅亡させた後、神の国を築かれると教え、諸国民に預言しました。


1999年9月5日(聖霊降臨後第15主日)

「愛には偽りがあってはなりません。」(ローマの信徒への手紙 12章9節)

 《愛》(キリストの愛、アガペ)を偽りのものとしてはならない、愛は真実なもの、とパウロは語り、さらに愛は神からの賜物であり、これによって生きよと私たちに勧めます。

 愛は愛する者へのひたむきな熱意と献身として現れる。

 そうでなければそれは偽りの愛、つまり自己愛、自己満足の愛であります。

 さて、このキリストの愛、この神の賜物は外見上で体裁のよいものではありません。

 しかしそれは真実であり、決して偽りの愛ではないのです。

 あるときスイスのベルンという町に住む青年牧師が列車に乗っていたところ、向かいの席にひとり涙していかにも悲しそうな女がいました。

 そこで彼は女になぜ泣くのか尋ねました。

 すると女は近く出産するのだが、産まれてくる子には父親となるべき人がいなく、不憫でしょうがない、またこの先二人で生きていけるかと考えると不安で悲しくて仕方がないのだとうち明けました。

 ところでこの牧師の返事はと言いますと、彼が女の夫となり、子供の父親になろうという突飛な提案だったのです。

 この女は強く慰められて人生が高められました。

 キリストはきっと彼以上の愛を持ってあなたを真実に慰められます。


1999年9月12日(聖霊降臨後第16主日)

「生きるにしても、死ぬにしてもわたしたちは主のものです。」(ローマの信徒への手紙 14章8節)

 ローマの信徒への手紙14章は神がわたしたちの内部でどのような存在であられるか、何を私たちにしてくださるのかを象徴的に、しかも明らかにしめしています。

 キリストのみ業を私たちのこころの内に招き入れなけらば、そのみ業は私たちには無益のままに留まっています。

 そこで大切なのはキリストと私たちが親密な関係、密接な交わりになければなりません。

 そしてこの関係、交わりにあって主キリストが私たちのこころの扉を開いて「入ってよいか、入りたいのだが」と言ってくださるのです。

 そこで私たちは喜んで主キリストを私たちのこころのうちにお迎えするのです。

 なお、キリストは聖霊によって私たちに永遠のいのちを確信させられ、私たちをいつまでもキリストにあって生きることを喜び、それに備える者とされます。

 「私を抱き取ってください やさしさを込めて
 あなたの腕のなかに
そうすれば 私は暖まります
 あなたの恵みによって あなたの言葉に
私はすべてを委ねるようになります」

 聖歌の作詞家、作曲家フィリップ・ニコライ(1556−1608)はこのような歌も作詞しました。


生きているときにも死ぬときにも
ただひとつの慰めは何ですか

私が肉体においても魂においても
生きるとき 死ぬとき そのいずれにおいても
私自身のものでなく
真実を貫く 私の救い主
イエス・キリスト
のものであることです
イエス・キリストは その尊い血を注ぎ
私のすべての罪を完全に贖ってくださり
私を悪魔のすべての支配から
救い出してくださいました
そして今も守ってくださいます
ですから 天におられる私の父のご意志なくては
私の頭から一本の髪の毛も落ちることなく
それどころか すべてのことが私の祝福にならざるを得ないのです

それ故に、イエス・キリストは 私にも その聖なる霊を通じて
永遠のいのちを確信させてくださり
このいのちはいつまでもキリストによって生きることを
こころから喜び、それに備える者としてくださるのです

ハイデルベルグ信仰問答 問1(ドイツ改革派の教理問答1963年)


1999年9月26日(聖霊降臨後第18主日)

「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」(マタイによる福音書 21:31b)

 ドイツ改革派の神学者R・ボーレン(1920〜)は心を病む妻をいたわって、つぎの短い詩編の語句を唱えることを彼女に勧めました。

 「私の魂よ、主をたたえよ。
 主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(103編2節)

 しかし、妻がこの詩の始めの語句の「私の魂よ、主をたたえよ。」と唱えるばかりで、後半を唱えないことに先生は驚き、自分の勧めが適切でなかったと反省しました。

 この詩を唱えては《主があなたにしてくださった良いこと》を思い起こし、常に神に感謝して心安らかに日々を過ごして欲しいーーこれが愛する妻への先生の願いでした。

 しかし、妻はこの詩が自分に《主をたたえよ》と命令し、自分を責め立てているかのように解釈したのです。

 《神様の恵みが弱い自分に十分である》(・コリント12:9)ことを忘れず感謝することで幾多の苦悩に耐えたパウロを見習い、神に感謝することがなにより大切です。

 「あなたたち(律法遵守を重視するファリサイ人)より先に神の国に入る」と言われ、徴税人や娼婦にも神の救いが豊かに与えられると主イエスは教えておられるのですから。


1999年10月3日(聖霊降臨後第19主日)

「神の国は・・・・・それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイによる福音書 21:43)

 福音書の「ぶどう園と農夫」のたとえを、イエスは祭司長たちやファリサイ派の人々に対して語られました。

 丁寧にぶどう園を管理する農園の主人とそこに雇われた農夫たちを話に登場させ、主イエスはこれを聞くユダヤ教指導者が神信仰の態度を根本的に改めるように諭され、彼らが律法の行為を義とする態度を改め、神の恵み、つまり福音を感謝して受け入れることで「御国にふさわしい実を結ぶ」ようにと勧めました。

 「実を結ぶ民族」とは主イエスの福音を感謝し、その恵みによって生きる信仰の共同体、つまり教会のことであります。

 主イエスの共同体は律法遵守をもって神の祝福の保証とはしません。

 これに対してユダヤ教指導者たちは律法遵守を神の救いを得る手段とし、また律法違反の行為は災いを招くものだと主張しました。

 しかし主イエスはこうした彼らの律法理解は誤りであると指摘し、収穫の真実の主である神に感謝し、神の恵みに与るようにと勧めます。

 私たちも神に感謝し、神を賛美しつつ、神によって養われて「実を結ぶ民族」として礼拝を大切に守りましょう。


1999年10月10日(聖霊降臨後第20主日)

「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイによる福音書 22:14)

 ある王が前もって招いていた人々に家来を遣って「すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と案内させます。

 福音記者はこれを主イエスのご復活後の使者たちの宣教の姿勢と重ね合わせています。

 自分たちの勝手な都合で招きを断った人々に対する王の裁きは、福音をかたくなに拒む人々に対する神の厳しい処罰であり、これをエルサレムの滅亡(70年)に読みとることができます。

 ところが11節より14節の部分の「礼服を着ていない者」に対する王の行為は以上とは別個の意味を持っています。

 すなわち招きに応答する者のなすべき態度のあり方としを問題とし、主イエスの神の国への招きを緊急な事態としています。

 救われるか、否か、それは人々の神に対する生活態度にかかっているのです。

 私たちはこうした信仰上の危機に直面しています。

 危機管理には確実な対応が必要です。

 無知や傲慢、怠惰や横柄な態度は許されません。

 この対応をひとつ誤れば、その人の生活のすべてが破滅します。

 そして「神の国の到来」を人々は軽視しています。

 今こそ私たちの生活態度と宣教が問われています。

 これこそが最も大切な危機管理です。


1999年10月17日(聖霊降臨後第21主日)

「神のものは神に返しなさい。」(マタイによる福音書 22:21)

 ユダヤの地がローマ帝国の属領となって以降(23BC)、主イエスが宣教活動をされていた時代を経て1世紀後半までユダヤ人は宗教の自由と徴兵免除の特権を得ていましたが、納税(神殿税と政治税)の義務を免れることは出来ませんでした。

 このようなローマの支配下ユダヤ人には多くの富裕者が出ましたが、その一方では土地を失った貧しい小作人も数多く発生しました。

 しかも、独立を求める反乱に失敗した後も(AD70)、熱心党のユダヤ教徒は狂信的暴力集団としてキリスト教徒に激しく敵対していました。

 主イエスの納税議論はこうした厳しい時代が背景となり教会で語り伝えられました。

 キリスト教徒は争いを避け、熱心党やファリサイ派のユダヤ教徒から身を守るためエルサレムから逃亡、あるいは移住を余儀なくされました。

 しかし彼らはキリスト(救い主)であるイエスの福音や使徒たちの教えに従って来るべき「神の国」を待望し、その日の到来を熱心に祈って生活しました。

 さて、今や私たちは2000年を迎えつつ、時代の変様を分析しこの対応に努めつつ、よりいっそう「み国が来ますように」と祈って日々をおくりましょう