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「主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、」(テサロニケの信徒への手紙・3:12)
イエスは弟子たちに、神の国が近づいているのであるから、そのことを誤りなく見分けるようにと教えられました。
福音記者ルカはこの神の国が近いことを、イエスの十字架と復活の事実の中に見ています。
原始キリスト教時代にあっては、ただ熱狂的な終末観も現れましたが、福音記者はこれを否定し、ただ歴史上で一回限り起こったイエス・キリストのこの出来事のうちに、神の国の到来を認め、それが終末のしるしであると主張しています。
さて、パウロは《互いに愛し合う》ようにテサロニケの信徒たちの勧めていますが、これは当時の信徒たちの基本的生活態度でありました。
この兄弟愛は神の国の完成を示すイエス・キリストの再臨に備えるため大切なことでした。
なぜなら、神の国は神がイエス・キリストの愛の働きによって実現されるものだからです。
神の愛が働く人々はすべての人に及びますが、この世の最も貧しい人々、人々から放置された孤独な人々も神の愛の対象です。
このように理解して聖フランシスやマザー・テレサは地上の生涯を終わりました。
「主よ、罪を犯しました。犯したとがを、私は認めます。あなたに乞い求めます。お赦しください。」(旧約続編「マナセの祈り」より)
マナセはユダ国の王(前7世紀)ですが、祖父アハズ王、父ヒゼキヤ王にならってアッシリア王に服従し、アッシリヤ王の命ずるまま土着の神々を祀っていました。
これによってマナセはイスラエルの預言者たちから厳しい叱正を受けました。
土着神礼拝は親から引き継いだ者だとして、マナセははじめそれを自分の罪とは認めず、それどころか彼を非難する預言者たちを迫害しました。
しかし、後になって彼はそれが自分の犯した罪であると気付き、神に熱心に赦しを求めて祈りました。この模様は旧約聖書『歴代誌下』33章にあります。
彼が自分の行いを自らの責任としたとき、マナセは神の前に出て、心からの祈りをささげることが出来ました。
これからご一緒に「マナセの祈り」を読んで私たちも神のみ前で祈り信仰を深めましょう。
「あらゆる人知を越える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピの信徒への手紙 4:7)
アメリカ聖公会北ミシガン教区のグラッド・ストーン・トリニティ教会は信徒数80名、主日礼拝出席者数45名という小規模教会であり、数年ごとに牧師が入れ替わり、ときには無牧状態の期間がありました。
信徒たちは絶えず不安と孤立感にとりつかれ、無気力になったりしました。
ところがこの10年前に信徒たちは自分たちで新しい試みに挑戦してきました。
無牧のとき、これまでは牧師の仕事を分担し、牧師が与えられると各自の働きを休ませましたが、これからは常時、変わらぬ教会活動の分担体制を確立させることにしました。
教会委員会が12人を集め、彼らは神学校で学んだ指導者を招いて学習会を隔週ごと、3年間継続させて自己訓練に励みました。
そしてそのうちの2人は司祭に、2人は執事に、5人は説教師に、ほかの3人はさまざまな任務を担当するまでに成長しました。
「このみ心に基づいてただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、私たちは聖なる者とされたのです。」(ヘブライ人への手紙 10:10)
原始キリスト教時代、信徒たちはユダヤ教徒による迫害に苦しんでいました。
そこで彼らはイエス・キリストが旧約聖書のうちに証されている救い主であるという確信を持つことが重要でした。
いま読まれたヘブライ人への手紙10章は旧約聖書にある詩40編7〜9節を引用して、このことを立証しようと努めます。
この詩編はユダヤ教が守ってきた感謝と贖罪の犠牲(儀式)を神は好まれず、いまや神は御心によって人々を救おうとされていると歌います。
ヘブライ人への手紙はこの御心がイエス・キリストの自己犠牲によって完遂されたと断言します。
教会、また信徒たちは約300年間ユダヤ教徒とローマ皇帝によって痛めつけられ、文字どおり暗闇の力に苦しみ続けました。
彼らの忍耐強い信仰こそが私たちの信仰にとって貴い遺産であります。
迫害こそありませんが、見せかけの平和にぬかよろこびせず、私たちもキリストによる《唯一のいけにえ》にあずかって、神の御心によって《聖なる者》とされキリストの勝利をいただきましょう。
「この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。神はこの御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブライ人への手紙 1:2)
この終わりの時代をかって(1節)と対比して読んでみますとこの両者には大きな違いがあることが分かってきます。
これはいまに対する過去と言った類のことを意味しているのではなく、その両者には大きな意味というか質の転換があるのです。
普通私たちはいまも瞬く間に過去に吸収されると理解しますが、ここではそのような言わばいまも過去も同質の次元でとらえてはいません。
この終わりの時代とはキリストの救いが始まり、それがいま、これからもなされる時代であり、かってとは律法とか預言者が神の救いに人々を招き入れた時代です。
これらの相違は新約の時代が旧約の時代に取って代わったことを意味しています。
キリストの救いが始まったいまはこの終わりの時代であり、この時代は今後絶対に過去にはなりえないものです。
厳しい迫害に忍耐する逞しい精神は、このキリストの時代に生き始めたものたちの信仰に源を見いだします。
そして私もこの終わりの時代に生きる者であります。
「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハネによる福音書 1:12)
ヨハネ福音書で「言」(ことば)とありますのは、「神」を指していますが、同時に「イエス・キリスト」をも意味しています。
そこで神=イエス・キリストということになります。
上記の12節の「言」も「自分」もイエス・キリストのことであります。
そしてこの「言」の内には「光」があって暗闇にいる人間を照らすのだというのです。
おそらくこうした語り方を、この福音書を書いた人は自分の教会の賛美歌からヒントを得ているようです。
しかし、この光を「民は受け入れなかった。」とあり、イエス・キリストはユダヤ人をはじめ多くの人々から拒否されたのです。
でも、この光に照らされ光の子となった人々がいた。
彼らこそイエスを受け入れ、彼を神の御子と信じた。
それは私たちキリストを信じる者たちであり、「神の子となる資格」を与えられたと高らかに感謝しているのです。
なお「資格」とは「権威」とも訳せるギリシャ語で、この世の支配、束縛の外にたつ「力」を意味しています。
神の御子イエスの恵みで暗黒から解放された喜びはこれです。
「聖なる者たちの受け継ぐ者がどれほど豊かな栄光に輝いているかを悟らせてくださるように。」(エフェソの信徒への手紙 1:18)
暗黒の世を照らす光なる御子イエスの降誕を、私たちは感謝しますが、この世紀末の暗黒は本当に深刻です。
信徒の皆様がご自分のお仕事で苦労なさっていることを知りますと、私はパウロがエフェソの信徒のために祈った言葉そのままで皆さんのために真剣に祈る必要があると思い、祈っております。
さて、この世紀末の暗黒は西欧社会がそれまでの封建的身分社会を崩壊させて、自由、平等、博愛と言った市民的理念を掲げた民衆による民主社会を形成させてきた結末とも考えられます。
《希望》は神の救いという信仰的意味でなくなり、人間の可能性に賭ける未来に関する願望となり、人間自らの力で実現可能な未来への信頼と変わりました。
また、このような人間の営みは、人間を集団的に滅亡させうる核兵器を産み、寿命を一躍延ばし、さらに遺伝子技術を発展させ、生命の本質に人間自身が手を加えるまでになりました。
しかし、人間は人として生きるに必要な精神的価値をないがしろにしてきました。
いま、じっくり聖書に学ぶ必要があります。
「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は神に受け入れられるのです。」(使徒言行録 10:35)
昨年8月、9月には二人の女性の悲しい訃報が報道されました。
その一人は英国元王妃ダイアナのパリでの事故死でした。
彼女は皇太子との不幸な結婚によく耐え、世界の不幸な人々に出会い、人々を慰め励まして自分の人生を大転換させました。
英国国教会カンタベリー大主教ジョージ・ケアリーは彼女の死を悼み「美しい女性はとても傷つきやすく、また弱い人でもある。しかし彼女は自分の悩みや悲しみによく耐え人々のために生き、この世の弱者に限りない同情を示し、自らの責任を感じる強い人になった」と語りました。
36歳のダイアナの死をパパラッチが報道するスキャンダルでもって葬り去ることは出来ません。
もう一人の女性とはインドの修道女マザー・テレサの死去でした。
ユゴースラビヤに生まれた彼女は若くしてインドに赴き、1948年以降はカルカッタで、貧しい人々のなかのもっとも貧しい人々に奉仕することを始め、麻薬常習者、売春婦、虐待に喘ぐ女性たちを救済し、また臨終間近の路上生活者を看護しました。
テレサは彼等のうちに主イエスの内住を信じ愛しているまでだと語っています。
「『水がめに水をいっぱい入れなさい』」(ヨハネ福音書 2:7)
福音書はカナでの婚礼でのイエスのみ業を、彼の《しるしの始め》(11節)としています。
このように福音書はこれを単なる奇跡とはしていないのであります。
「しるし」とは、神がイエスによって新しい救いのみ業を始められることを示すものなのです。
福音書はイエスがガリラヤ、エルサレム、ユダヤの各地方を3度巡り歩かれたと記していますが、これらはユダヤ教の暦に合わせた旅としています。
それは従来のユダヤ教にとって代わるイエスによる救いが始まったことを意味しています。
イエスの《しるし》は古い時代がもう終わり、イエスによる全く新しい神の救いの時代が始まったことを告げています。
婚礼の宴はめでたく、人々はその喜びを分かち合います。
そこで古い葡萄酒が突然なくなり、新しい葡萄酒、より高価な葡萄酒がふるまわれ人々の喜びは最絶頂に達しました。
この状況の一大変化はイエスによってなされました。
ここに新しい世界、新しい時代が造られ、新しいいのちを造り出す主のみ業が始まったのです。
ヨハネ福音書はこのことを、《しるし》をもって私たちに示そうと努めているのです。
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ記 8:10)
「繁栄が没落を招く」とは古代オリエントの世界にすでに明らかな事実であって、四強国カルデァ(新バビロニヤ)、メジィア、リュディア、エジプトが滅亡寸前の紀元前七〇〇年頃、イラン高原西南に位置していたアカイメネス王朝が次第にその国力を増大させ、オリエント世界を大きく支配するまでになりペルシャ帝国が始まります。
キュロス二世は支配下の他民族の宗教を認め、ユダヤ人と呼ばれたイスラエル人も解放しエルサレムに帰還させました。
その後アルタクセルクセス一世の治世にはユダヤ人で王の高官となったネヘミヤがエルサレム地域の総督に任命され帰還の同国人を指導し、また祭司エズラも彼等の前で律法の書をながながと読み上げました。「
これを聞く大勢のユダヤ人は退屈するどころか、これを熱心に聞き、涙すら流す始末でした。
自分の居場所を失って久しい彼らは感激のあまり「アーメン、アーメン」と絶叫して神を礼拝しました。
私たちもイエス・キリストによる神の救いに厚く感謝し、心から「アーメン」を唱和して礼拝を捧げましょう。
なぜなら私たちの力の根源こそ神にあるからです。
主の言葉が私に臨んだ。「私はあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に 私はあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた。」(エレミヤ書 1:4,5)
ノルウェーの作家ヘンリック・イプセン(1828−1906)はノラをして「妻であるまえに、一人の人間としていきたい」と言わせた代表作(戯曲)『人形の家』のほか、『ペール・ギュント』を発表しました。
主人公ペールは自分は《欲望の塊》、それだからこそ自分自身で有り得ると信じて生きてきました。
ところが自分の所有していた財産すっかりなくしてしまったとき、はじめて自分は芯のない玉葱のようなもの、真実の自己存在がなにもない自分を認めて悩みはじめます。
イプセンはペールに近代人の野望と彷徨、その末路の自己破産の悲劇を見ているのです。
またカール・マルクス(1818−83)が貧乏も贅沢もともに人間を人間であることから疎外させると考えている点でイプセンと同じです。
さて、エレミヤは自分の存在の根源を神のみ心にあると信じ、これによって生きる勇気を得ました。
死の不安に苦しむ人にとっては、「神、我とともにいます」思いを強めることによって神にあって生きる自分を回復させます。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、・・・・・」(ルカによる福音書 5:5)
苦労して働いたその結果が空しいものとなることほど、私たちを失望させるものはありません。
こうした空しさを舐めてきたガラリヤの漁夫シモンの人生に逆転劇が起こったとルカは記します。
シモンが漁の網を洗う場面、イエスがガラリヤ湖畔に行かれ、そこで教えを聞くために集まってきた人々に船に乗って話されたことなどをルカはマルコの福音書から借用しました。
そしてルカは「神の言葉」(1節)の種(8章11節)が、それを聞く人々の心のなかで大きな実を結ぶことを、「御言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節)と率直にその御言葉に従ったシモンの態度が招いた大漁で示します。
イエスの御言葉に従って生きかつ働くとき、私たちは決して徒労と失望に陥ることはなく実にゆたかな果実を得ることを学びます。
イエスは私たちの徒労を喜びに替えてくださいます。
なぜなら神に従いみ言葉によって生きることによって私たちは自己中心の態度を捨て神に導きを求めるからです。
「神に従う人のためには光を
心のまっすぐな人のためには喜びを
種蒔いてくださる。」(詩編97:11)
「貧しい人々は、幸いである。今飢えている人々は、幸いである。」(ルカによる福音書 6:20,21)
2000年前のユダヤ人社会は祭司階級以外の人々は基本的にはみな平等であるとされ、貧しい人々も神殿で礼拝が出来ました。
また同国人の貧しい人々の求めに、人々が援助の手を差し出すことが神の戒めとされていました。
しかし、当時のユダヤ人社会はローマ帝国の支配するところで、「フミリオレス」(貧しい者・卑しい者)という階層の人々がいました。
さて、イエスはその貧しい階級の者とされていた病人、子供、やもめ、徴税人、貧困者など、ユダヤ人社会でいつもその存在を無視されていた弱い立場の人々に「神の国はあなたがたのものである」と言って、神が彼らにあわれみと救いを約束されていることを告げました。
「幸いである」とは神の愛が彼らを確実にゆたかにすると約束されている状態を言います。
人々が新しい正義と平等を世俗的なメシヤ(救い主)に求めて、カリスマ的人物や政治的手腕家、革命家の出現を期待するとき、聖書は「あらゆる縄目を解く」メシヤであるイエスを宣教します。
赦し、和解、交わり、一致がその主題であり、イエスが約束する神の国がその実現であり完成です。
「わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」(コリントの信徒への手紙・12:31)
「最も大きな賜物」、それは「愛」であるとパウロは語っています。
賜物とはカリスマ(ギリシャ語)の訳ですが、人を神、また他人と結びつける神の「愛」のことです。
ユダヤ教の律法教師であり、キリスト教徒の迫害者という苦い過去を持つパウロが到達した信仰上の結論、それは神の「愛」をイエス・キリストのみ業に認め、この愛を賜物と感謝し、それに導かれて生きるのが最高の道であるということです。
これが信仰熱心こそが神の恵みを勝ち取る確実な条件であると信じきっていた彼の信仰に大きな転換を起こしました。
信仰熱心は自己愛から出ることがよくあります。
しかしこれは自分を神から、また人々からますます分離させていきます。
そしてこの分離が私たちを深い不安に誘いこみ他人まで不幸にします。
こうした自己愛は神の賜物では決してありません。
「わたしを心に覚えること、それは蜜よりも甘く、わたしを遺産として受け継ぐこと、それは蜂の巣から滴る蜜よりも甘い」(シラ書24章)。
ここにも神の賜物である{知恵」を求める者に与えられる栄光と富の実、神から滴り出る愛の実を得る者の幸福が語られています。
「私は主が与えられた地の実りの初物を、今ここに持って参りました。」(申命記26:10)
西暦前6世紀、ユダ王ヨシャの代に祭儀上の規定と同時に、共同体の神の民が個人として守るべき規定が定められました。
その個人がなすべき信仰告白が主に述べられている申命記26章では、神の民が行う献げ物の意味が書かれています。
それは主でいます神がかれらに与えられた地で、彼らが生産した地の初物を献げ、すべての物の根源が神にあること、今自分たちがこの地に生活するようになったのは、先祖たちに対する神の導きと祝福、恵みによるという信仰を告白するためでした。
彼らは自分たちの共同体の歴史を神中心に理解しているのです。
さて、いま特別に大斎克己献金を行おうとする私たちですが、この献金の意味をこの申命記から理解してみましょう。
この献金をする私たちにまず大切なことは、神の導き、祝福、恵みを教会という共同体の実りとし、すべてのものが神から出ていることを告白することです。
この信仰告白なくして私たちは献金することは出来ません。
この献金はキリストのみ業の宣教を究極の狙いとし、そのみ業のために献げようとするものであります。
「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。」(フィリピの信徒への手紙 3:21)
フィリピの信徒への手紙は3つの手紙の集合体です。
本日読まれたものは同書3章2節から4章1節までの手紙の一部です。
ここでパウロはユダヤ主義をキリスト信仰においても守ろうとする者について「あの犬ども」(3章2節)と言って、彼らに注意しなさいとフィリピの信徒たちに警告します。
彼らは割礼を強要し、イスラエル民族であることを誇りとして、異邦人信徒に対する優位性を維持しようとしました。
これに対しパウロは「キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」(3章9節)を主張し、信徒たる者はキリストの苦難への参与、またこれによって与えられる復活の力を強調し「何とかして死者の中から復活に達したい」と願うべき者であると教えます。
これがパウロの徹底した神の愛による救いを重視するキリスト信仰であります。
本日礼拝後の祈祷会のパンフレットに「主イエスが教えてくださったように互いに愛し合えば、全世界が癒されるでしょう」とあります。
神の愛こそが私たちを結びつけ、祈らせてくださいます。
「園丁は答えた。ご主人様、今年もこのままにしておいてください。」(ルカによる福音書 13:8)
旧約の預言者は神の民イスラエルをぶどうの木とかいちじくの木にたとえて、背信の民に対する厳しい審判が間近に迫っていると警告しました。(イザヤ5:1−7,エレミヤ8:13,24:1−8など)。
これは雨が降らず作物が実らない凶作を神の裁きとして神の恵みと赦しを祈願した宗教より信仰上の進歩が認められます。
預言者はこうしてイスラエルの民に改心を勧めました。
ところが新約聖書に見る主イエスのこのたとえは、頑固に改心を拒む人は実を結ばない果樹が最後には切り倒されるように、神の国にはいることを神が拒まれるとしながらも、「いま」は主イエスが私たちの改心を待っておられる時であると教えています。
イエスをこの世に遣わされたこと自体が神の愛、また忍耐の現れなのです。
教会はそして信徒の皆さんの働きは人々に「いまは主イエスの救いのとき」と告げつつ、自分自身も主イエスに救いの恵みにあずかることです。
このことが「もしそれでもだめなら、切り倒してください」という園丁ならぬ主イエスのみ言葉に感謝を持って応答し、神の最終的審判に備えることになるのです。
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかった」(ルカによる福音書 15:24)
主イエスは「放蕩息子」のたとえで、神の愛は私たちの理性や常識で測ることはできず、それでいて私たちの行いに無関係な神の勝手気ままな感情では決してないと教えておられます。
「遠い国に旅立ち」、「何もかも使い果たした」弟息子は親の目の届かない異国人の地に移住し、遺産を勝手に浪費します。
それは神のもとを去り神を避け、神から託された賜物を自分の欲望を満たそうと浪費する人間の実態、私たちの現実を象徴しています。
次にイエスは「死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかった」と小躍りし、この息子を迎え入れる父親の喜びあふれた応対をもって、それが神の愛のみ業であると教えられます。
「悔い改める一人の罪人」(ルカ15:7)を尋ね求めておられる神は、その罪人を神のもとに復帰させるために救い主イエスをこの世に遣わされ、「豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)よう「有り余るほどパンがある」神のもとに帰らしめます。
この主イエスのみ言葉を率直に聞き、、心安んじてその執りなしに頼み、神のもとに帰り着く私たちにこそ、神の喜びがあるのです。
「家を建てる者の捨てた石これが隅の親石となった。」(ルカによる福音書 20:17)
本主日の福音書(ルカ20:9−19)は旧約聖書イザヤ書5章1−7節「ぶどう畑の歌」を背景とした寓喩です。
ここでは、農園主と彼がこよなく愛しているぶどう園を、神とその民の関係になぞらえて語っています。
この両者の間にはその愛の関係を妨害しようとする悪人が介在しています。
ここに神の愛と苦悩、厳しい裁きがあります。
主イエスはそのような悪人として律法教師と祭司長というユダヤ教指導者を指差しています。
そして神は愛する神のすべての民を救うために、あたかもぶどう園主の長子のようにイエスを派遣されると語っておられます。
福音書はこうして”建物が完成時には不要なもの、捨てられるべき石”であった「隅の親石」が、神の救いにとって貴重な働きを演ずると語りつつ、イエスの死と復活を説明しています。
イエスを無用の石とし、救い主と信ぜず、しまいには殺害を策謀するユダヤ教指導者に対するイエスの非難は、忠実な神の民に対する神の限りない愛と対比されています。
私たちはイエスを師と仰いで、その救いのみ業によって信仰を豊かに実らせましょう。
「 エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供のために泣け。」(ルカによる福音書 23:28)
復活日前の一週間は聖週とか受難週と呼び、私たちはイエス・キリストの十字架の死と葬りを黙想し、神の贖罪愛に感謝します。
さて、イエスが最後のエルサレムに入られるときの民衆は「自分の服を道に敷いた」のであり、弟子たちは「声高らかに神を賛美し始めた」のです。
また他の福音書では民衆が葉のついた枝を切って来て道に敷いて歓迎しました。
この民衆の歓迎は西暦前141年のヨナタンの子シモンが大祭司となり、ユダヤ民衆と共にエルサレムに上ったときの様子に極似しています。(マカバイ記一13:51)
おそらくイエスはシモン同様のユダヤ人の指導者として人々に歓迎されたのですが、両人とも唯一、真実の神を守るために戦ったのです。
しかもシモンがシリヤ王に殺害されたように(前134年)、主イエスも十字架の死を遂げられました。
しかし福音書はその主の死をイザヤの預言の実現の出来事と理解し、それを神の贖罪愛に発展させました。
抑圧に苦しんだユダヤ民衆のように、私たちもこの世の悪の力に支配されている自分を悲しみ、イエスに救いを求めましょう。
「 神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現して下さいました。」(使徒言行録10:40)
使徒言行録10章の使徒ペトロの説教は使徒フィリポがすでに宣教していたカイサリヤのローマ人コルネリウスの家でされました。
ペトロは、神がまず使徒たちを選んでイエスの復活の承認として人々に宣教する使命を彼らに与えられたと言います。
キリスト教会の起源はこのように彼らイエスに選ばれた使徒たちの宣教にあります。
従って教会はイエスの復活を信ずる人々の群であり、信徒たちの信仰とは”新しい神の世界が滅び行く古い世界に出現して神の直接の支配が始まる。これが復活のイエスの「神の国」到来の告知である”という確信であります。
この神の到来の希望は、西暦前169年のシリア王アンティオコス4世によるエルサレム支配によって発生した”ユダヤ人の徹底的絶望がメシヤ(救い主)出現によって、徹底的希望にとって替わった”ことにその源を求めることが出来ます。
使徒たちはイエスの復活信仰によって、神の国の出現が現実のものとなるに違いないと確信して歓喜し、神に感謝して祝ったのです。
わたしたちの復活信仰もこうした使徒たちの信仰から出るものでありたいものです。
「 あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書 20:19)
「恐れるな、わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である」(ヨハネ黙示録 1:17)
主イエスが十字架にかけられて死にたもうたことで取り残された弟子たちは極度の恐れに襲われました。
彼らはまずユダヤ教の大司祭と最高法院が彼らを見つけ出して、イエス同様に殺害しないだろうかと恐れ、疑心暗鬼を生じました。
次に彼らは主の弟子でありながら、その主を裏切ったことで主が再臨されるであろうとき厳しい審判を受けるのではないかと不安に怯えていたのです。
こうした弟子たちの恐れを記すヨハネ福音書が書かれた西暦70年頃、最高法院はヤムニヤ会議でキリスト教を異端と断罪し、会堂での礼拝から彼らや信徒たちを追放しました。
その結果彼らは身の不安を感じ始めました、
「恐れ」という不安の精神は主の弟子たちだけでなく、教会全体の精神状態でもあったのです。
「あなたがたに平和があるように」との復活の主のみ言葉ほど、こうした彼らを励ましたものは他にありません。
「あなたがたに平和が」とは”あなたとともに神はいてくださる”との意味で、「主の平和!」と交わす私たちの挨拶も同じことです。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(マタイによる福音書 10:34)
「あなたがたに平和があるように」と復活されたイエスは弟子たちに告げて いますが(ヨハネ福音書20:19)、生前のイエスが上記のように<平和で はなく、剣を>と言われたのはなぜでしょうか。
この二つの「平和」の意味には違いがあります。
イエスが「平和を実現する人々は、幸いである。その人は神の子と呼ばれ る」(マタイ5:9)と言われる平和とは、地上のわたしたちが作る平和では なく、イエスご自身が築かれるものです。
地上の平和の脆さに対して、イエスによる神の平和は新しい真実な秩序であ り、イエスが平和の主でいます。
しかもそのイエスの平和は主の十字架の死と復活のみ業によって築かれたも のです。
それはイエスの大きな犠牲、つまり代償が不可欠なものでありました。
人間による平和は「最も小さい者」(マタイ25:40)の存在を無視し、 そのような人たちを犠牲にして成立しますが、神による平和はイエスの死と復 活によってわたしたちに与えられます。
また、これは神の剣がこの世の平和を粉砕することで現実のものとなるので す。
「何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください。」(使徒言行録13:15)
それはパウロの第一回伝道旅行(AD48,9)のことでした。
彼はバルナバを伴ってピシディア州アンティオキアのユダヤ教会堂で人々を励ます説教をしました。
これは安息日のユダヤ教の礼拝の中でなされました。
彼の説教の中心点は「神はイエスを死者の中から復活させてくださった」使徒言行録13:30、ローマの信徒への手紙10:9)ことでした。
使徒言行録はこのパウロの説教がユダヤ人のみならず異邦人までをも席巻し、彼らは会堂を出たパウロたちの後を追ったためパウロはそこでも「彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」(使徒言行録13:43)と記しています。
しかし、こうしたことがユダヤ人の反感を買って、パウロたちはイコニオンへ移って行きました。
ではなぜ、パウロの説教がこれほどまでに人々を感動させイエスを信じるまでにしたのでしょう。
それはイエスの言葉とその業がモーセの戒律によるよりも神の恵みを自分たちに与えると彼らが理解したからです。
モーセの律法か、それともイエスの言葉か、このうちの一つを選ぶこと、それが神に救われ、恵みを受けるのに重要な彼らの選択だったのです。
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ記19:18)
旧約聖書のレビ記17−26章は「神聖法典」と言われるほど、「聖なる」という語が多い律法書の一つですが、律法は会堂の礼拝で常に朗読、また教授されていました。
神の契約の民イスラエル人は「あなたたちは聖なる者となりなさい。」(19:2)という神の命令に従うため、日常生活全般に及ぶ数々の戒めを厳守しようと努めていました。
特に上記レビ記19章18節の言葉は、これを実践することが人間の最高の倫理で、これによってすべての悪に勝つことができるとされていました。
ここで新約聖書マタイによる福音書5章43−48節を読んでみましょう。
ここで主イエスはレビ記19章に見る戒めの精神をもって教えておられるのですが、〈隣人〉に〈敵〉をも含められます。
もっとも旧約聖書の戒めにも敵に対して親切であれとありますが、主イエスはイスラエル人が自らの律法厳守主義を捨て、すべての人を隣人とするよう教えています。
一見、不公平とみられる神の愛がすべての人を救うものであり、それは律法厳守では達成できないと主イエスは彼らに教えられました。
「完全な者」となるということは私たちの課題でもあります。
「大地よ、恐れるな、喜び躍れ 主は偉大な御業を成し遂げられた。」(ヨエル書2:21)
小予言書の一つヨエル書は紀元前5世紀頃の作で、「主の日」を神によってもたらされる終末の日とし、この日には恐るべき出来事が起こるが、主でいます神に立ち帰る者には聖なる霊が注がれる喜ばしい日ともなると語っています。
そして新約聖書はこの日がイエスによって到来したと宣言しています。
私たちが主日ごとに集まって行う礼拝は、この偉大なみ業を成し遂げられた神の恵みを感謝し、喜び躍る行為であります。
従って私たちはいまの現実を越え、神のみ業が始まっていることを確信して日々を生きる者であり、たとえ貧しく辛い日々の暮らしでも、悲しく悩み多い毎日を生きているとしても「常に心を変わることのない喜びに置くことができますように」(本日の特梼)と祈るのです。
中央アメリカの国ホンジュラス奉仕活動をしている米国人アマンダ・デェイさんは、薄幸な少年たちのために献身し、悲しい毎日を送っている少年たちに神の慈しみ、神の愛を注ごうと熱心に働いています。彼女には「主の日」の神のみ業の信仰、また喜びが全身に溢れています。
さあ私たちも!
「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(ヨハネによる福音書17:23)
『信仰の友、キリストの僕、ダイアナよ、あなたを神に委ねます。この世を去り、あなたの創造主、父なる神の愛の下に進みなさい。あなたのために死にたもうたイエスキリストの憐れみ、あなたを強める聖霊の力によって、主を信じるものは共に生き、また去って行くのです。安らかに安息し、また神の栄光にあって甦りなさい。そこではもはや嘆きも悲しみも消え失せ、永遠の光と喜びがあなたと共にあります。アーメン』
この祈りは昨年9月6日、英国のウエストミンスター・アビー(英国聖公会)のディーン・ウエズレー・カー司教が元皇太子妃ダイアナの葬送式でとなえた祈りであります。
ダイアナ妃は事故直後「構わないで」(Leave me alone.)と言って死に臨みました。
それはダイアナが人々の介護、同情に頼らず、神の愛に自分を委ねようと願った臨終の一言でした。
人々の中で生き、喜び、また悩み苦しんだダイアナが、生涯を終わろうとするとき、人々には頼らず、神に自らを委ねました。
信仰はこのような非常事態にあって、私たちを神のもとに導きます。
The congregation then sang the great Welsh
hymn
Guide me, O thou great Redeemer following
which the Dean of Westminster said The
Commendation:
Let us commend our sister Diana to
the mercy of God, our Maker and
Redeemer.
Diana, our companion in faith and
sister in Christ, we entrust you to
God. Go forth from this world in the
love of the Father, who created you;
In the mercy of Jesus Christ, who
died for you; In the power of the
Holy Spirit, who strengthens you. At
one with all the faithful, living and
departed, may you rest in peace and
rise in glory, where grief and misery
are banished and light and joy
evermore abide. Amen.
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(使徒言行録 2:17a)
聖霊の降臨を経験した、使徒たちの一人ペトロは、使徒たちを代表し、立って声を大にして荘重に話し始めました。
〈数々の奇跡としるし、また十字架の死の苦しみから解放されて復活された方、このナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方であり、ここに神のご計画がある〉とペトロは宣教しました。
ユダヤ教の祭(五旬節)を祝うため各地からエルサレムに集まってきた人々は、これに強く感動し「わたしたちはどうしたらよいのですか。」と問います。
そこでペトロは「悔い改めなさい」、「洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」などと告げます。
こうしてその日にペトロの言葉に従った三千人ほどが洗礼を受けて使徒たちの「仲間に加わった」のであります。(使徒言行録2章14−41節)
聖霊とは霊能者の霊能や霊魂、人が恐れる幽霊とは全く違うことは明らかです。
聖霊とは「イエスを死者の中から復活させた方の霊」(ローマ8章11節)、死者イエスの霊魂ではなく、神ご自身から出る救いのみ業の力であり、いまも私たちに授かる賜物であります。