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「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光も受けるからです。」(ローマの信徒への手紙8:17)
パウロは私たちは神の子として生きる義務があると教えます。
このように教会は神の救いのみ業を世の人々に伝達する使命を担うのです。
世の中には自分たちの利益を得ようとしたり、利益を保持しようとする共同体があり、他の共同体との激しい競争すら当然のこととします。
そして得た利益の分配で互いに言い争います。
しかし教会という共同体は神の子とされた私たちが、キリストの苦難と共に、その栄光を等しく受ける相続人となるところです。
古来、英国の教会の結婚式では夫となる男は妻となる女に指輪を与え、「この指輪をもって汝を娶り、我が物を汝のものとす」と言いました。
これは結婚後の妻の財産は夫の管理下に置かれるが、夫の死後、夫の遺産をすべて妻が相続することを意味しました。結婚指輪はそのことを保証する大切な「しるし」でした。
このように神は私たちに聖霊を派遣して私たちを聖別し神の子、神の相続人とされるのです。洗礼式はそれを意味しました。
「わたしたちは、イエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(・コリントの信徒への手紙4:10)
数多くの苦難を経験したパウロには、ただ独り取り残されたときの使徒の弱さと神の恵みを与えられたときの使徒の強さが見られます。
彼は決して自分を装ったりしません。
でも彼は自分が苦難に耐えることが出来るのは、イエス・キリストによる神の新しい創造、救いの働きが自分の身に始まっているからであると言っています。
そこで彼は自分を「土の器」と呼び、神がこの器である私にすばらしい恵みを容れて下さったと表現します。
その恵みとは何でしょうか。
それは人間の苦難と罪、死という恐怖をご自身で経験され、十字架に死に復活された主イエスによってのみ示される神の救いのことであります。
パウロは自分がこのような「土の器」であることを決して忘れません。
神の恵みをいつまでも大切に感謝するために、捨てたい過去を勝手に葬り去ることはできなかったのです。
”戦後を総決算しよう!」と呼びかけ過去を捨てさせる国家指導者を歓迎するような私ではなく、「土の器」として神の恵みによって生きましょう。
「わたしたちの一時の軽い艱難は比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(・コリントの信徒への手紙4:17)
キリストの使徒という責任感が大変強かったパウロでも、自分たちの宣教の働きかけをコリントの教会の反応に見ると不安を抱くことがありましたし、迫害によって生命の危険を感じることがしばしばありました。
このようなとき彼は御子(イエス)を復活させた御父の力を信じることを生きる原動力としてきました。
「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させて下さいます。」(・コリント6:14)とも彼は言います。
私たちを落胆から引き上げるのはこの神の力が私たちに働いているという信仰です。
「内なる人」として「日々新たにされる」とは、「若返る」(リフレッシュ)というものではなく、今までになかった質的な新しさを実に帯びるという意味です。
元来私たちにはない自己の変革が神の力の働きによって始まるのです。
信仰者であろうと努める故の苦難や悩み、心身ともに衰えていく自分の情け無さ、予期しなかった失敗などで私たちは苦しみますが、神の永遠の栄光の内に導き入れられるように、私たちは熱心に祈り、励まし合いましょう。
「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのかその人は知らない。」(マルコ福音書4:27)
日本はいま古代史ブーム、遺跡発掘調査が盛んで、その多くは日本列島にはさらに古代に優れた人々の暮らしがあったことを裏付ける調査結果を発表します。
こうした調査結果は貴重ですが、ここには人々の暮らしに盛衰があるというメッセージを読みとることも重要であります。
日本はいま大音響を立ててその社会構造の崩壊を経験し、ビッグ・バン(大変革)を必要としています。
ここで私たちは人の力を誇示したバベルの塔に対する神の審判を連想することが出来ます。
「体を住みかにしているかぎり、主から離れている」というパウロの言葉は、神の救いをしきりに求めてやまない切々たる祈りがこめられています。
今世紀になってドイツの神学者たちは「キリストこそ神のみ言葉であり、真理でありたもう」(D・ボンヘッファ)とキリスト者に語りかけ、確かな信仰に立ち返れと警告しました。
み言葉こそが人の思いを遥かに越えた良い賜物であります。
私たちはいまこそ「天の永遠の住みか」に導かれるように祈り、み言葉を聞く態度を整えましょう。
「神は、キリストを通してわたしたちに和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(・コリントの信徒への手紙5:18)
今年7月に開催されるアメリカ聖公会は同国のルーテル教会と制度上の完全な相互理解と交流の是非を決断しようとしています。
これは1993年に英国聖公会と北欧諸国のルーテル教会の完全な交わりが成立したことをその手本としています。
日本でもこうした動きがみられます。
なおローマ・カトリック教会、聖公会、またルーテル教会は16世紀以来の激しい信仰上の対立を止め、礼典(洗礼、聖餐)・職務(聖職位)・教会の権威などに関する合意を見いだそうとしています。
これらは過去の激しい信仰上の争いや対立を深く反省し、若いと信頼を取り戻そうとするものですが、これはパウロが強調しているキリストの和解の働きに対する真剣な応答から出ています。
いま世界各地には激しい民族移動とか外国人の流入が見られ、国際的紛争とか民族運動が起きています。
しかし、こうした深刻な情勢のなか、共存、共生に道が造られつつあります。
これにはキリストの和解を信ずる教会の対応を無視することは出来ません。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」(・コリントの信徒への手紙5:9)
さきほど私たちは”み心に従って良い行いの実を結ぶことができるようにしてください”と祈りましたが、これこそ私たちの信仰の日々の目標であります。
旧約聖書の律法はイスラエル民族が貧しい同胞を思いやり、彼らを救済する規定を定めています。
これは彼らが共同体を整え、成長させるために必要なことでした。
さて新約聖書では律法に代わってキリストの愛が信仰の共同体を形成させる不可欠要因であると言います。
”私は良い羊飼いである”と主は言われ”新しい掟を与える、互いに愛し合いなさい”(ヨハネ福音書13)と教えておられます。
そして主ご自身がこれを実行されました。
この意味で主は私たちが良き行いの実を結ぶためのリーダーであります。
主は私たちが神の国で良き実を結ぶようにご自身の命を犠牲にされました。
人間の共同体にとって安全な暮らしを確保するリーダーが不可欠ですが、主キリストは私たち信仰の共同体にとってなくてはならないリーダーであります。
神は律法に替えて愛をもって私たちの共同体を導き、養って良き実を結ばせたまいます。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(・コリントの信徒への手紙12:9)
今わたしは両足にかなり激しい痛みを感じています。
行きたいところならどこでも行けた私にとって、こうした肉体の苦痛は私の心をも悩ませます。
ところがコリントの信徒たちの送った手紙でパウロは「私の身に一つのとげ(刺)が与えられました」と言い、このとげは「私が思い上がることのないように」神から与えられたものだと解釈しました。
1903年43歳の生涯を閉じた徳永規矩は病気のために極度の貧困を強いられましたが、日記に「過去を思うものは嘆息が多く、将来を望み見るものには楽しみが多い。楽しみの心は天の祝福を受け、嘆息の声は命を縮める」と記して苦難と戦って神のみもとに帰って行きました。
彼は「苦難をも誇りとします。・・・・・聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマの信徒への手紙5章)と言ったパウロの信仰に啓発され『逆境の恩寵』を書いています。
パウロはこのように身に降ってきた苦難をもって絶望を乗り越え、神の救いのみ手に自分を委ねて伝道者の生涯を終えました。
もう自分は駄目だとつい嘆く私たちのうちにこそ、キリストの力を宿らせましょう。
「キリストにおいてわたしたちは、・・・・・約束されたものの相続人とされました。」(エフェソ1:11)
パウロはこの手紙で、イエス・キリストを信じる私たちは神のご計画にあずかって、神の御国を受け継ぐものとされるといいます。
この神の御国とはイエス・キリストご自身が払われた犠牲による死の支配に対する確実な勝利が約束されている神の直接の支配のことです。
そしてイエス・キリストがこの御国にわたしたちを招かれるのですから、わたしたちは最も恐れている罪と死に対する勝利と真実の命の道を私たちがイエス・キリストへの信仰によって選択するようにとパウロは進めているのです。
古代中国の秦の始皇帝(前3世紀)や漢の武帝(前1世紀)は自らの権力を誇り、不老長寿の仙薬をも手に入れよう探し回りました。
しかし、両人ともに病にかかってあえなく死んでしまいました。
奢り誇れるものの末路はこのようにして過去の人として終わってしまいます。
私たちは本日の特梼で「主の喜ばれることを願い求めさせてください」と祈りました。
こうして自分のすべてを神に委ね、神の御心のままに御国に導いて下さいと祈りつつ、神の愛を恵みとして謙虚な信仰の生涯を送りましょう。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有
様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコによる福音書6:
34)
政治の理念とか目標とは万人のための平和な生活の達成にあり ますが、現実の私たちが経験している政治は、もっと豊かになりたいと願う私 たちの欲望の充足であったり、いっそうの欲望増幅を煽り立てることに終始し ているように思われます。
こうした政治またこれと関係深い経済活動によ っては、私たちの心の深みにある願望は満たされません。
ところで、自宅 の病床にたった独りで暮らしているスイスの一老婦人は、訪問してきた牧師 に「私が独りぼっちだったことは一度もありませんでした。イエスさまがいつ もこの弱り果てた私のそばについていてくださいます」と心穏やかに答え、こ の牧師を感動させたといいます。
この方はきっとイエスさまを「良い羊飼」と 信じて毎日を送っておられるのでしょう。
たとえ日々の暮らしが貧しく、 かつ孤独であったとしても、このようにイエスさまを身近に感じておれば、私 たちも確信をもって日々を過ごすことができるのです。
イエスさまは私た ちを教えるだけでなく、いつも養ってくださるのです。
「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において1つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソの信徒への手紙4:13)
草創期のキリスト教会には使徒と預言者がその土台であるとパウロは言いました。(エフェソ2:20)
彼等には村から村、、町から町へと巡回して伝道する人と定住牧師のように1つの教会で伝導する人がいました。
また、ローマ帝国の都市では街角や市場で人々に布教したり弁舌を放つ哲学者や宗教家も数多くいました。
ギリシャの学問の都市アテネはその典型で、パウロもそこで熱心に伝道しました。(使徒言行録17章)
しかし、彼らの中には功名心に駆られて自己宣伝をする類の者も多くいました。
そこでパウロはこのような者によって教会が荒らされ、あるべき道を踏み誤ることがないようにと忠告し、各自に与えられている賜物をもって教会を豊かに成熟させ、”キリストの体”に成長してゆくようにと勧めました。
私たちの教会もこうした”キリストの体”であります。
誰一人も自分を誇らず、教会の成長と宣教のために自分に備えられた賜物を差し出して、神の家族として喜びと感謝の日々を過ごしましょう。
「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて」(エフェソの信徒への手紙4:23)
草創期の教会共同体の構成員はその多くがユダヤ人でした。
彼らの考えでは、まずユダヤ教の律法の要求することをまず満たし、そのうえでキリストを信ずることが大切だったのです。
しかし、この信仰感をきっぱりと否定し、キリストを信じて人は「新しい人」になるべきだと主張したのは、伝道者パウロでした。
彼パウロは「キリストによって実現されたこの計画」(エフェソ3:4)は「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものを私たち(ユダヤ人)と一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかり者となる」(エフェソ3:6)ことと信じて、ユダヤ人の律法主義、異邦人の放縦な生活態度をみな否定して、「真理に基づいた正しく清い生活を送るよう」に勧め、イエスのうちにある真理を求めよと信徒に説きました。
大正期の伝道者、内村鑑三や新渡戸稲造たちは律法に匹敵する武士道は「人の道」、これは日本人の最善の道ではあるが、日本を救う力はない。
だから「神の道」を歩めと説教しました。
「これは、天から降ってきたパンであり、これを食べる物は死なない。」(ヨハネによる福音書6:50)
荒れ地を40年旅したイスラエルの民は西暦前1230年頃、ついに「神の約束の地」(乳と蜜の流れる地)に到着しました。
彼らやその子孫ユダヤ人にとってこのことは民族存亡の危機に際して「主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる」(申命記8:7)という大きな希望またはげましとなって、これが1948年のイスラエル共和国の建設を実現させました。
彼らを救われた神による歴史上の事実が彼らにとって決定的な神への信頼を固めました。
ところがキリストはこの世で与えられるパンに代えて神よりの聖霊の賜物の大切さを私たちに教えています。
「わたしは天から降りてきたパンである」と言われたイエス・キリストは、私たちに地上の栄光ではなく、神のみ国に招かれる栄光を求めるようにと教えています。
パンではなくキリストの贖いの業が私たちを導き養いたもうのです。
そこでパウロは”聖霊が贖いの日に対する保証”であると言っているのです。
私たちはいま価値観の見直しと価値の再評価を試み、そしてキリストの福音をもって人々にこのように働きかけましょう。
「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソの信徒への手紙5:16、17)
カズオ・イシグロ(日系英国人作家)は『日の名残り』(Remains of the Day)という作品で英国人の富豪の邸宅に働く執事(Butler)スチーブンスの手記を通して、人生の晩年の陰りを覚える読者に貴重な教訓を与えています。
主人に絶対的信頼を置き、その高潔な品性を慕って家政全般を取り仕切ってきたスチーブンスは、広大な邸宅に住むことで満足してきたのですが、二番目の主人の勧めで一週間の旅に出て人々に出会い、彼らから明日を生きる心構えを学びとります。
”人生楽しまなくっちゃ、夕日が一番いい時間なんだ。”と語る老人はさらに”後ろを振り向いてばかりいるのをやめて、もっと前向きになって残された時間を最大限楽しむことだ”と彼に説教します。
こうして彼は主人に仕えるに誠実さだけではなく、これからは立派なジョークの一つでも言えるようになろうと思い立ちます。
誠実な信仰に生きて生涯を送ろうとする私たちも、工夫をこらして神さまに自分自身の人生を差し出し、夕方のいちばんいい時間を楽しむようにしましょう。
「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」(エフェソの信徒への手紙5:21)
歴史学者木村尚三郎先生は西洋と日本の歴史を観察し、今は「家族の時代」だと説きます。
高度成長期が終わって低成長期の時代に入って、人々は最悪の時代を意識して価値観を変え、生きる幸せを心の内面に求め、理性の時代から心の時代、感情の時代への転換を試みる。
そこで人々は共生(助け合い)といった親和的人間関係を求め始める。
これが現在の新しい「宗教の時代」、また「家族の時代」であるというのです。
ところが私たちの家族的人間関係は往時のそれと大きく変質してしまい、家族関係は崩壊寸前かすでに崩壊してしまっています。
ここにも現在の社会不安の発生原因があります。
私たちはこの状況にあることに気付き、家族関係を育成しなければなりません。
このとき、私たちは聖書の教えを学びましょう。
草創期のキリスト教会は信徒の家(民家)で礼拝を行っていました。
これが「家の教会」といわれるもので、ここに教会の共同体が生まれ育っていったのです。
パウロはこうした教会の信徒たちに家庭訓を説き、キリストを畏れ、互いに尊敬して生きるようにと勧めました。
「イスラエルよ、いま、わたしがあなたに教える定めと、おきてとを聞いて、これを行いなさい。そうすれば、あなた方は生きることができ、・・・・・」(申命記4:1)
上の聖書の個所は「口語訳」によるものですが、「わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい」と訳している新共同訳聖書よりも原意を正しく示しています。
申命記がイスラエルの民の前で読まれたのは、イスラエルがBC7世紀のころで、存亡に危機に瀕していた時期でした。
申命記は神の民イスラエルに対して”まずは神に聞き、そして神の戒めを行え”と教えています。
こうした信仰態度には神とその民の間に信頼関係があるのです。
「わたしが今日命じるとおりあなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。(同書30:16)とあるとおりです。
パレスチナに生活するイスラエルの民が肥沃神バアルと配偶神アシュタロトを祀って降雨を求め、土地と雨水とが混じり合うことで土地の肥沃力が活発になるように祈願していた先住民族の異教信仰を受け入れて、その道徳的不健全性に陥ったイスラエルの民に、申命記は”神に聞き、神に従え”と勧告したのです。
本日の堅信式は京都教区主教バルナバ武藤六治師父です。
堅信式について
初代教会の「入信の式」を基本にして定められた洗礼堅信式の一部がこの式文です。
これは個人に対する神の恵みであると同時に「神の共同体(コイノニア)」である教会が洗礼堅信志願者を迎え入れるものでもあります。
従ってこの式は教会全体が神の恵みを感謝し、さらに神の導きを祈る教会全体の礼拝です。
さて再誓約の内容は受洗時に誓約した「悪の力を退けて神に帰り、神を信頼し、キリストの模範に従う」という初代教会時代から継承されている誓約です。
また主教の前に志願者が立ってから主教が彼らに手をひろげ「天の父よ、あなたはすでに水と聖霊によって・・・・」と祈るのも初代教会以来の慣習であり、この祈りは旧約聖書イザヤ書11章1ー3節の言葉をもって霊の賜物が示されています。
当教会には幼児洗礼を受けている10歳、20歳代の青少年の皆さんが10数名おられますが、早く堅信志願をして信仰生活を確立するようご両親、教父母の熱心な勧めをよろしくお願いします。
なお教会も彼らのために祈ります。
「誰がわたしと共に争ってくれるのか、われわれは共に立とう。 見よ、主なる神が助けてくださる。」(イザヤ書 50:8、9)
〈神を信じている私がなぜこのように苦しまねばならないのか。神を信じない 人々があのように栄えているのに、私はなぜ神からこのような罰を被るのだろ うか。〉
こうした疑問にイザヤ書50章が答えています。
この預言は信仰者に忍耐せよと説きますが、その忍耐は神が必ず私たちを苦難から救ってくださるという確信から出ています。
神を信じ、神に聞き従い、苦難に耐えて戦う、なぜなら神が私たちと共に戦っ てくださり、そのうえ勝利を得させてくださるのだから。
これが預言者の信仰です。
この信仰の態度はキリスト教に受け継がれています。
私たちの信仰生活はこの世では正当性が認められ難いでしょうが、この〈苦難の僕〉をイエス・キリストに重ね合わせ、神の勝利を表わす栄光の冠を彼に認める私たちはイエス・キリストの忍耐と勝利に与るものであり、また信徒の交わりを作ってこの信仰の態度を維持し確立しようと努めるのです。
これが〈聖徒の交わり〉であり、教会に真実の意味を付与し、天上また地上の教会の存在を教えています。
「上から出た知恵は、なによりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。」(ヤコブの手紙 3:17)
ヤコブの手紙は信徒たちに教会内部での争いや戦いを起こさないようにと忠告し、自分のものではないものを欲しがって、それを得ようとして他人と争ってはならないと言います。
もしも教会のなかで、信徒がそれぞれ勝手気ままに自分たちの願いを叶えさせようと争うならば、その教会は福音伝道をすることが出来ないばかりか、貧しく弱い人たちを無視する自己中心的集団になってしまいます。
この手紙は信徒たちがこのような利己心に走らず、キリストが自分たちに最善の賜物を与えて下さると信じて祈り求め、「上からでた知恵」すなわち「主の豊かな恵み」によって教会を平和な共同体に成長させるように勧めています。
日系アメリカ人の社会はいま世代や境遇の違いで深刻な問題をはらんでいます。
日系三世の人々がアメリカでの差別撤廃運動に奔走し、厳しい差別によく耐えてきた二世の人々と対立することがよくあるそうです。
しかし、彼らはアメリカ社会の平和のため相互理解に努めて善良な市民として平和に生きる知恵を求めています。
「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」(ヤコブの手紙 4:8)
私たちは3つの時代を経験します。
まず最初は幼年から青年の時代を生きて、次に職業人としての時代を生きて、最後に退職後の時代を迎えます。
しかしこれらの時代の最後の時代の選択は他の時代の選択とは随分違います。
多くの場合はここでは差し迫った決断をする必要がありませんので、ここで私たちは人生の黄昏を感じとります。
社会的地位は過去のものとなり、家族とも離ればなれになり、いよいよ独り旅を始める身の上となります。
そこでは残り僅かの日々をどう生きればよいのかが問われます。
最近出版された佐江衆一『幸福の選択』は人生の岐路に立つ男の選択の仕方を題材としています。
P・トゥルニエは著書『人生を変えるもの』で「人生の開花、成長は労働自体にあるのではなく、魂の完成、内部の人格の完成にある」と教えます。
働き盛り、元気いっぱいの若い時代から、私たちはしばしその働きの手を休め、やがて消えゆく霧に過ぎない自分に気付き神に近づきましょう。
「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」(ヘブライ人への手紙 2:9)
ホテルではキリスト教式結婚式が神式よりも一般的になったそうです。
しかし、信仰によらない人のキリスト教式結婚は信徒の結婚式と結婚式の意味が違っています。
信徒たちの結婚式には〈私達のために死んでくださったイエス・キリストの神の恵み〉が大前提であります。
すなわちこの世の権力によってご自身を死に渡されたキリストによる私たち人間の罪と死、そして神による赦しという〈恵み〉を「一つの源」として生きる男女の結婚こそ信徒たちの結婚生活であります。
結婚式を執行する教会では、洗礼と聖餐のサクラメントはもとより、葬送式が常時行われます。
これらも信徒たちの結婚式と全く同じキリストによる神の恵みを信じてなされる礼拝であります。
「主よ、主の家族である教会を、絶えることのない恵みのうちにお守りください。」と祈る本日の特祷は〈キリストにあって生き、キリストにあって死ぬ〉私たち信徒の日常生活で出来る大切な祈りの内容であります。
私たちは家庭をこのような信仰の家族の共同生活の場となるように日々心がけてまいりましょう。
「キリストは御子として神の家を忠実に治められる」(ヘブライ人への手紙 3:6)
本日のヘブライ人への手紙に日課は、イエスは神の家の一員であり、仕える者であったモーセにまさるお方であると言い、イエスか神の家、すなわち信仰の共同体である教会を治めるのに、ご自身の忠実を示されたと説きます。
そのイエスの忠実は律法を守る者の忠実にまさるものであるとマルコ福音書10章も説いています。
このようにして新約聖書はイエスの忠実によって神の家に住む信徒たちが救われるのであり、彼らに必要なものはイエス・キリストの救いを確信し、希望に満ちた誇りを持ち続けることであると教えています。
ここで私たちは自分の信仰が試されています。
信仰があるようでいて、実は自分を信頼しておのれの行いの正しさを誇っているのではないだろうか。
最近、競売でシカゴ野生自然史博物館が所有することになった6500万年前の肉食恐竜「スー」は肉の食べ過ぎで痛風を患い歩行困難となって死んだと言われます。
なにものをも恐れぬ肉食恐竜さえも自分の力を誇ることで自滅しました。
それはあたかも今を生きる私たちのようだとある識者は警告しています。
「わたしたちは、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙 4:14)
「ヘブライ人への手紙」はローマ皇帝ネロによるキリスト者に対する迫害を経験し、これからさらにこの迫害が激しさを増すという不安が濃厚な時代の西暦80年から90年に書かれました。
こうした時代背景にあってこの手紙の執筆者は、「イエスは神の子である」という信仰告白の言葉を、イエスは大祭司であるという信仰とともにしっかり保って、試練に耐えて神の恵みを待望せよと教えています。
パウロもこのことを「しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」(・コリント15:2)と語っています。
この「保ち、覚える」べき内容は最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けた者」(・コリント15:3)で、キリストの福音のことです。
そこで私たちは受け、保ち、覚えるべき福音をパウロのように自分の教会と他の人々に伝承しなければなりません。
最も大切なことがらを明確にし、それを伝承する責任を私たちは担っています。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。」(エレミヤ書29:11)
古代イスラエルのユダ王国がバビロニヤ王に侵略された紀元前6世紀、預言者エレミヤはバビロンに捕囚されるイスラエルの民を励ましました。
それはバビロンに連れ去られ捕囚の身になるだろう70年が過ぎれば、神はあなた方に将来と希望を与える。
だからこの神のご計画を信じて疑わず、家を建て、労働に励み、子孫を増やし養い、平和に暮らしなさいという内容でした。
こうして捕囚の民は神にとって”初なりのよいいちじく”(24章)であるとエレミヤは励まします。
さて、私たちは”肉に属するもの”つまり”罪の奴隷”でありますが、「私を尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(エレミヤ書29章13節)神の恵みにあずかっているのです。
かつてのイスラエルの民のよう私たちはこの世の旅人です。
それだからこそ私たちは”よいいちじく”として、互いに信仰生活を励み、家族を養い信仰に導き、神の恵みである将来と希望の神のみ国に招かれるよう、これからより熱心に神を尋ね、神を求めましょう。
「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたに会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」(ヨハネによる福音書16:22)
ドイツの作曲家ヨハネス・ブラームス(1833ー1897)は北ドイツのハンブルグで生まれ育ちました。
彼は父が果たせなかった優れた音楽家になりましたが、父ヤーコブから忍耐力と努力する精神を、また貧しい家庭をきりもりしてきた母クリステァーネから豊かな感受性と優しさを受け継ぎました。
こうしてヨハネスは音楽一筋の道を貫くために一切の束縛から解放されたいと願う一方、世間に順応して平和な暮らしをしたいという願望も捨て切れず悩みつつも、「レクィエム」(死者のためのミサ曲)を作曲しました。
彼は愛する人の死を悲しむ者の心はキリストのみ言葉(上掲)によって慰めと励ましを得、母がその子を慰めるように、わたしはあなたがたを慰める(イザヤ書66:13、14)として感動的な第5楽章を作曲しました。
今日、逝去者を記念する私たちは、先祖や両親を通して育まれた豊かな信仰心をよりいっそう豊かに養い育て、死の恐れを捨てて復活のキリストの命を授かるよう、また死者に主の安息と復活の恵みを賜るよう祈願しましょう。
「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれたからである。」(マルコによる福音書12:44)
一人の貧しいやもめが賽銭箱に最小単位の青銅貨のレプトン銅貨二枚を投げ入れた行為をごらんになったイエスは、これを金持ちの行為と比較され、人を評価することでユダヤ教教師たちと鋭く対立された。
人間の価値は富める者がその財力にもの言わせて世間から高い評価を得るごときものではないのに、彼らはそのようにして神からも重んじられようとする。
それは大変な思い違いである。
「彼らはすでに酬いを受けている」(マタイ6:2)とイエスは語られます。
この貧しい女の行為を例にして、神は貧しく身分の低い者、世間から卑しい者とされる者が、自分の一切を神に委ねて熱心に助けを願うとき、神は彼をみ心に懸けられるとイエスは教えます。
このように神は出来上がった人間、いやそのように思い上がった人間に関心を寄せられず、みしろ神にも世間にもなんら誇り得ない人間を救われるのです。
でも、このままでよいのではありません。
神に仕え、神のご用に立つように心がけて働くことで信仰を成長させることが大切なのです。
「神の御心を行って約束のものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ人への手紙10:36)
西暦80〜90年代に書かれたヘブライ人への手紙はローマ皇帝ネロによるローマのキリスト者に行った迫害が意識されています。
「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた」とあります。
この「光に照らされた」とは洗礼の恵みをいただいたことを意味しますが、信仰者が受洗の時点のみでなく、その後の信仰を脅かす困難にも、これによく耐えたことを評価して、今後の忍耐にも意味を添えます。
この忍耐は「ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者」の確信から生まれます。
従って忍耐が恵みの確信を生むのではありません。
三人の石工が大聖堂を建てていました。
なぜ働いているのかと問いますと、「石を積み、壁を造っているのさ」と言ったり、「自分と家族の生活のためさ」と答えた二人に対し、三人目の石工は「神の家を建て、祈るためさ」と言いました。
神さまのための働きは辛くて単調な仕事にも確かな意味を与え、忍耐に積極的な意味を与えます。
その仕事は神の御心を行うものだという喜びを彼に与えます。
私たちもこうして生きましょう。
「いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世に属していない。・・・・」(ヨハネによる福音書18:35〜36)
主イエスを尋問したローマの総督ピラトは、主イエスを「彼は自らユダヤ人の王と自称している」と訴え、彼に死刑の判決を迫るユダヤ人群衆を前に、公正な判決を下そうと努めます。
ピラトはいくつかの尋問を試みましたが、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」といい、最終判決を下しませんでした。
こうしてこの福音書は、群衆の訴状の虚偽と主イエスの真理(真実)を対比させ、この真理に気づいたピラトの態度を賢明であったとします。
ピラトは主イエスに神の真理を見いだし、これを神の権威として受け入れたからです。
さて、神の真理、神の真実は主イエスの十字架の愛として私たちに働き、私たちを永遠の命へと導かれます。
この神の真理は海岸に寄せくる大波のようです。
人間を呑み込もうとするこの大波に逆らうことは至難です。
それは巨大な力を持っていますので、それに敢えて逆らわず、その力に身を委ねるのが賢明なのです。
主イエスの愛の力はこの大波よりも優れ、これを受け入れる私たちを真理の道に導いてくださるのです。