サンパウロ通信


2003年8月 「同性愛者論議」

今年6月に私たちの教区が2教区に分割された後、私たちの新しい教区28人の聖職のうち、同性愛者と考えられる方々は5人を数える。その内、公式に同性愛者を自認する聖職は一人である。私たちの教区に所属する聖職候補生11人の内3人は同性愛者である。人口における同性愛者の比率を1割もしくは3割とする医学者の見方からは比率は妥当な数字かもしれない。今回アングリカンコムニュオンで同性愛の問題が話題となる前からもブラジル聖公会では既にホットな話題で、私が着座してからも、一人の同性愛者である聖職候補生に対する按手をめぐって、聖職委員会(聖職試験委員会とは別個に法憲法規で規定された聖職育成のための教区委員会)でも同人の按手の可否をめぐって激しく議論された。この意味で同性愛主教の誕生を巡り、ブラジル聖公会の中でも今、M/Lで連日激しい議論がなされてる。

 ブラジル聖公会としては1997年に「同性愛者に関する主教会教書」(内容は同性愛者を容認するが異性間、同性間の歪んだ性関係を非難するという中道進歩的見解で、同性愛者同士の結婚等に関してはアングリカンコムニョンの見解を待つといもの)が公式に公表されているが、今年の主教会で新しい教書を作成する事が準備されている。しかし、今回ブラジル聖公会のエバンジェリカルな傾向が極めて強い北伯のレシーフェ教区主教が、公式に同性愛主教を絶対容認できない、ニュウハンプシャー、やニューウェストミンスター教区とは交わりを持たない旨の声明を出した事により、主教会が一致して新しい教書を出せるかが、疑問視されるようになっている。また、同教区では全ての教区所属聖職に「同性愛主教反対の声明」に署名が求められた、いや自発的なものだ、いやなかば強制的なものだ、と噂だけが広まり、混沌としている。

 神学的な議論はともかく、この混乱の原因の一つには聖書翻訳者の誤訳が原因ではなかろうかと思料する。私は聖書学者ではないが、一聖職として今、1コリ 6:9−10(arsenokoitai)、1テモ 1:9−10(pornoi, andrapodistai)、ロマ1:26−27(para phusin)が正しく翻訳しなおされる必要があると実感している。薄学であるので断言は出来ないが、手元の邦訳聖書の中では、本田哲郎神父の私訳のみがロマ1:27を「男性が男性に無様なことを強いる」、1コリ6:9「男色を強いる者」と正しく訳されているように考える。

 いずれにせよ、小原教授もいわれるように「これらの言葉は男色の特殊な形態を指し示しており、今日の同性愛という言葉とは対応関係がない」との発言に同意している。小生の手元にはこの点に関する聖書学的な邦文研究としては1998年10月「福音と世界」に発表された小原克弘氏の「新約聖書の性倫理ーテストケースとしての同性愛」しかないが、どなたか、他のものがあれば是非ともご教示賜りたいと考えている。

[補足]

 なぜキリスト教会の中で言われもない「同性愛者」への偏見が出て、sodomyが男色を意味するような間違った文化を作り出されたかは、他にも指摘される方があるように、偏に聖書翻訳者の誤訳によるもののように私には思われます。

 新共同訳、フランシスコ会聖書研究会訳、バルバロ訳等ほとんどの聖書の邦訳が犯しているあやまりであり(もちろん、日本だけではなく欧米でも同じ誤りがなされて来た)、私が知っている正確な邦訳は本田哲郎神父の私訳の聖書だけのように思われます。

 この点に関しては邦文では日基の神学者小原克弘氏が「福音と世界」1998年10月号に「新約聖書の性倫理ーテストケースとしての同性愛」と題して詳しく解説されています。 小原教授の論点は:

(A)1コリ 6:9−10 の「男娼(malakoi)」「男色をするもの(arsenokoitei)」。
マラコスは元来「男らしくない」という程度の意味であるが、それが転じて俗語では、同性愛行為の「受身の」パートナー(しばしば、それは少年であった)という意味で広く用いられていた。アルセノコイーテスはarsen(男)とkoite(ベッド)という部分からなり、ユダヤ教的な同性愛禁止の神聖法集を前提としている。いずれにせよ、アルセノコイテースをマラコスとの関係で考えるなら、おそらく受身的なパートナーでるマラコスに対する積極的なパートナー、つまり、自らの性的欲望を満たすために金銭や権威によって手に入れる人物像を想定する事ができる。言うまでもないが、これらの言葉は男色の特殊な形態を示しており、今日の同性愛という言葉とは対応関係がない。

(B) 1テモ 1:9−10  みだらな行いをする者(pornoi)、男色をする者(arsenokoitai)、誘拐する者(andrapodistai)。
ポルノイは一般的なギリシャ語の用語法としては、自分自身を売り物にする「男娼」や売春宿にいる奴隷のことを意味する。・・・つまり、1コリ 6:9のマラコイとアルセノコイタイの関係と、ここでのポルノイとアルセノコイタイとの関係は、ほぼ同格であると考えられる。この視点からアンドラポディスタイを考えると、「誘拐する者」が特に誰を対象としているのかがはっきりしてくる。つまり、誘拐されるものは通常奴隷として売り飛ばされたのであるが、美少年、美少女はしばしば売春宿に奴隷として売られたのである。すなわち、アルセノコイタイによって用いられるポルノイを調達するのがアンドラポディスなのであり、この三者によって展開されている非人間的な現実に対し批判がなされるのは聖書的倫理観にかなっているであろう。(後略)。(福音と世界1998年10月号より転載)

 小原教授はこの後、1テモ1:9−10やロマ 1:26−27にも言及されるほか、「性倫理の基礎としての新約聖書の可能性と限界」にも触れられています。