サンパウロ通信


2003年7月 「日系教会の非日本化」

 この問題は日本聖公会の皆様にはあまりピントこない話題かもしれないが、海外の日本人があくまで少数者としての教区の日本人主教としての私にとって、最大の課題であると言っても言い過ぎでないかもしれない。
 私達の教区はこの6月から教区の半分のパラナ州を新しい教区として独立せしめた結果、残された教区は信徒総数が5千人たらずで、聖職が28人しかいない小さい教区となった。その中でなんと7教会が会衆の8−9割が日系人で占められる純粋な日本人教会であることは、やはり大きな問題である。一つの町に複数の教会が存在する場合、当然特殊教会の存在も認容しえる。しかし、町に唯一の聖公会の教会であるこれらの7教会は特殊教会であることに、甘んじていることは許されないのは必然の事実であろう。ましてや、二世・三世の時代に入り、言葉の問題がクリアーされた現在、これらの日系教会が、単に日系宗教クラブとして存続することは許されない。
 開拓伝道者としての伊藤大執事や弓場司祭を初めとする伊藤の後継者の働きは、それは素晴らしいもので時間が許されれば、是非とも記録として残したいと思うし、他の方からもその必要性を指摘された。
 しかし、その後、これらの教会が時代の推移と共に、閉鎖的な一種の日系宗教クラブとして存在している事実はやはり、教区としては頭痛の種であることは論をまたない。もちろん、米国聖公会の経済的、人的援助が全てなくなった時点から、これらの日系教会は現存の老信徒が必死で教会を守り育んで来た事実は実として、認識されなければならない事は充分理解できるが、その間の事情を持って、日系教会が閉鎖的な宗教、仲良しクラブである続けることは、主の教会として許されないと思料する。
 現実にこれらの教会でブラジル人司祭が他のブラジル人を教会に招き入れた場合、ブラジル人が少数派である間はさほどの問題がないが、過半数に近づくに従い、日系人から「ここは私たちの教会」「あなたたちに乗っ取られたくない」と言わんばかりの反発が生じている。
 困難に直面し、団結した歴史を持てば持つほど、他人に大きな顔をして欲しくない、という感情が表に出て、教会は主のもの、という基本的な概念が忘れられるのは単に日系教会だけの問題でないかもしれない。
日本人として日系教会の歴史と伝統を尊重し、直視しながらもこれらの教会の非日本化を図る事が、日本人主教に与えられた使命と考えている。