サンパウロ通信


2003年2月 「田舎教会訪問記」

 サンパウロは2月に入って、あの冷夏はいずこにというほどの猛暑が訪れた。連日40度近い気温が続き、さすがのパウリスタ(サンパウロ住民)も悲鳴をあげた。

 冷夏に安心したわけではないが、今年の初め2月中旬にサンパウロでも一番暑いと言われるアラサツーバ市の教会の公式訪問を決めてしまった。もちろん、「麻薬中毒者の更生施設」用の農園購入と言う新たな課題が生じてたためでもあったが・・・その話が伝わり近くの教会(ペレイラバッレト市)の委員会からも来てもらい相談したい旨の話となった。

 サンパウロから700キロのペレイラ市には飛行機はなく、寝台バスもない。猛暑の中を普通バスで9時間旅行するのはは老体には堪える。仕方がないので550キロ先のアラサツーバ市まで寝台バスで行き。そこからその地の牧師にペレイラまで送ってもらうこととした。ブラジルはバス旅行が発達しており、大きなバスターミナルが行く地方別にあり、サンパウロ市内に3箇所もある。国内でも2−3日かかる長距離バスもあれば、パラグアイ、ボリビア、アルゼンチンなどの隣国行きの長距離バスもある。

 地下鉄の駅に隣接したバスターミナルに着き、出発のバスを待っていると、これも隣の州の日系教会(ロンドリーナ)の一世信徒を訪問される松尾司祭にバッタリ出会った。松尾司祭は来月帰国されるのでこれが最後の訪問となると言う。クリチーバにも日系会衆があり、2ヶ月に一度は74歳になられた森司祭が500キロのバス旅行によって日本語礼拝を保たれている。

 普通バスの2倍の料金(約3千円)の寝台バスは極めて快適で、座席が略垂直に180度倒れて熟睡出来る。もちろん,少しはアルコールの補助も受けるが・・・小雨のサンパウロを出発した夜行寝台バスは6時間半を掛けて早朝の5時半に到着した。途中で一度目を覚まし、また寝たので少々の疲れはあったが、そのままその町の牧師宅で朝食を頂き、すぐさま購入予定の農園を視察した。

 その地の私たちの教会は現在,青年たちの「麻薬中毒者の更生施設」を経営している。元牧師宅を改良したのみの施設は定員が13人の小さい施設で街中にある。しかし、更生には街中より農園で汗を流し、カウンセラーを受ける事が望ましいというプロの助言もあり、またせめて40−50人の青年を受け入れたいと言う希望もあり、郊外の農園購入の話となった。午後は農園の持ち主とのネゴとなったが、この種のネゴはかなりハードで芯から疲れる。値段が折り合わず取りあえずは再度交渉となった。

 そのまま150キロ離れたペレイラ市まで車で向かい、夜7時過ぎに同市につき、信者の方のご好意で急いで夕食を頂き、すぐさま夜8時からの礼拝となった。この教会は玉置司祭が一昨年まで牧会されていた教会で、教会の公式礼拝は金曜日の夜となっており、土曜日は日曜学校の礼拝があるが、日曜日は礼拝がない。とにかく蒸し暑く式服が塩を吹くほど汗をかいた。

 ブラジルの田舎町には必ず中心部に公園があり、公園に隣接したビヤホールが公園に折りたたみの椅子とテーブルを出すので、公園が毎夜、即席の文字通りビヤガーデンとなる。ここで土地の教会の執事と連れてきてくれた司祭と3人で11時近くまで歓談した。まだ飲み足らない若い二人を残し、信者の方が経営する湖の横の釣をする方たちの為のバンガローに着いて眠ったのは12時近かった。さすがの強行軍は堪えた。

 ブラジルには日本人移住者が作り上げた町は、私の知っている限り少なくとも3つある。今回訪問したペレイラ・バレット市(旧チエテ植民地)とかっては養鶏で有名だったバストス市と隣州のパラナのロンドリーナの近くのアサイ市(旭植民地のブラジル読み)である。これらの町はかっては住民の大多数が日系人で、市長も市会議員も日系人が多かった。もちろん、現在は町の発展と共に日系人は少数派となり、かっての勢いはこれらのいずれの町にもない。

 このペレイラ市にはこれといった産業もなく、かって盛んであった養鶏やコーヒー,綿栽培もマット・グロッソ州に取られてしまった。町のかってのコーヒー園や綿畑はことごとく牧場となったり、砂糖黍畑となっている。これらは殆どが大資本で近代化された牧場では雇用人数も限られ、雇用問題ではその地に貢献することは少ない。したがって町の住民の職業は、商業を除くと大多数は銀行員か公務員といわれるほど散々なありさまである。ペレイラの場合、町の多くが近年ダム建設で水没したが,その際もちろん、町の墓場も水没することとなった。ブラジルは殆どが土葬であるので、問題が生じた。だれかが死体からは猛毒が出ると言い出し、ダムの水を濾過しただけでは危険だ、という住民の圧力で州政府は、水脈を探してボーリングしたところ、地下2千メートルから温泉が噴出した。州政府は仕方がないのでこの温泉水を冷却し、町に水道水として供給している。幸い無臭の、付加物のない温泉水であったので良かったが・・・それでも冷却装置がたびたび故障すると、水道の蛇口からお湯が出ることになり、シャワーもそのまま浴びられる、と土地に新しく着任した牧師補が笑っていた。

 この温泉や町の周囲が湖となったので、釣場としては最高ではあるので観光地として生き残ろうとするプランもあるが、なにしろサンパウロから700キロでは遠すぎて、その観光地としての計画も進展していない。田舎町がかかえる共通の問題点である。

 それはそうと湖畔のバンガローで小鳥の鳴き声を聞きながら目を覚ました。網による魚の乱獲で魚が大幅に少なくなり、釣をする人も他の地にとられ、逗留者は行商人が多いと湖畔の宿の主人が言っておられた。

 その方に教会まで送ってもらい、暑さを避けるため教会の敷地の大きな木の下に椅子を持ち出しての教会委員会との会議となった。風景はのどかであるが、現金収入の少ない田舎町で2人の牧師(日本語礼拝のため、隣接地から日本人牧師が巡回している)を支えるのは至難の技で、毎回経済問題が議論の主題となる。今回は60年前日本人によってこの教会が創立されて以来、初めてのブラジル人牧師の赴任となったで、いかに大多数が日系ブラジル人であり、言葉の違いはないとはいえ、田舎の2・3世は日本人的色彩が濃厚で文化の差の問題もある。いかにブラジル人牧師に日本文化にある程度同化させるかが管理者としての私の責任でもある。幸い昨年から近くの町(といっても150キロあるが)からブラジル人牧師が手伝っていたこともあり、四分の一の会衆は純粋なブラジル人会衆となっている。

 サンパウロ州は特に「解放の神学」が強く、カトリックの神父は極めて左翼的で、田舎町の保守的な民衆とぶつかることが多い。田舎町では神父の権限は大きく、ぶつかった場合、彼らの行き場所がなくなる。そんなわけで儀式や教理が比較的カトリックに近い私たちの教会にこれらのブラジル人が逃げ場を求めたことが、近年ブラジル人会衆が増えた理由かも知れない。

 サンパウロの奥地のハイウエーは整備されており、対向車はほとんどなく、しかも地平線に消えるまでの真直ぐな道路で、最大の危険は居眠り運転である。ペレイラで新任牧師補の歓迎会をかねた「持寄り昼食会」で鱈腹腹ごしらえをした後、アラサツーバまでの150キロを次の会議予定もあって、100キロ以上のスピードでぶっ飛ばす事と相成った。居眠り運転が心配で、なにかと運転の牧師に話し掛け、助手席で居眠りも出来ないまま、無事1時間半でアラサツーバに着いた。

 かってはサンパウロ奥地の牛の集荷場として栄えたこの町は、牛の牧畜の多くがマットグロッソ州に移ったことにより、関連産業も移り,空洞化したまま次の産業を見出せないまま今に至っている。人口は30−40万人であろうか。

 このような地方都市では麻薬問題がさらに深刻である。まず若者たちには大都会のような刺激が少なく、麻薬に手を出す裕福な家庭の子女が多い。世界的な問題である麻薬はブラジルでも極めて深刻で、小学校にまで麻薬売人が手を出しており、最初はただで配り、中毒にさせてから売りつける常套手段をとる。残念ながらブラジルはコロンビア、ボリビア、ペルーといった麻薬産地のルートに入っており、北米やヨローッパに向かう麻薬の一部がブラジル国内でも流されている。その深刻さは殺人の6割が麻薬組織の縄張り争いが原因と言われる事実でもわかる。特に都市では誕生祝などのパーティーは夜遅くから始まり、朝食を取って解散、と言うことが多く、好奇心や友人の強い勧めで麻薬につい手を出し、そして溺れた青年が今度は売人となり、友人に自分の上前を乗せて売りつけることとなる。好奇心もあり、またアルコールの勢いもあって、麻薬に手を染める裕福な階級の子女が驚くほど多い。正直、いつ自分の子供が、孫が麻薬中毒になってもおかしくない、というのが現実である。

 400m2の土地に200m2の家屋が私たちの麻薬中毒者の更正施設である。現在は定員一杯の13名が収容されているが、更正期間はかなり個人差があり、7−8ヶ月から1年半ぐらいである。この施設は本人が自由意志で入っているので、出たければいつでも出られる。私達の教会の聖フランシスコ会の修道士が舎監として、一緒に暮らしている。晩祷に招かれ彼らと共に歌い、祈った。日系の青年が一人居り、電気ギターで伴奏していた。彼は歯学部の四年生の時に、麻薬に手を出し、家からあらゆる物を持ち出し売っては麻薬を購入していた。彼の父親は今は引退されているが、日本語教師を40年近くして来られたと言う。翌日日曜礼拝でお会いした時、私に抱きつかれ「息子をどうか宜しくお願いします」と泣かれた。妻を亡くし頼りの一人息子が麻薬に身を滅ぼそうとしているその間、どれほど苦しみ、泣かれたことであろうか・・・

 13人の青年達は翌日の日曜礼拝で「主よ、御許に」を若者風にアレンジして、合唱を披露してくれた。見事にハモッテいた。恥ずかしいが思わず泣きそうになった。坊主になって35年。礼拝の歌でこれほど感動した歌はなかった。農園を購入し、なんとしてももっと多くの青年達の更正を手を貸したい、という強い思いを持って、帰宅の道に着いた。