サンパウロ通信


2002年11月 「41年目の帰国」

 私が東京教区の聖職候補生から、ブラジル聖公会に移籍したのは1962年であるが、その1年前の1961年(昭和36年)、神戸教区より宣教師として松尾常雄執事(当時)が渡伯された。ブラジルの日系開拓伝道者の伊藤八十二師が育成された日系聖職が相次ぎ、引退、逝去されて日系聖職が不足し、ブラジル聖公会よりの日本聖公会への要望に応えたものであった。松尾師はリオ市とカンピーナス市でのポ語勉学の後、サンパウロ、パラナ州の日系教会で41年間の牧会の後、今年教区総会のあった8月、65歳でブラジル聖公会聖職を退職され、(ブラジル聖公会の法憲法規では60歳に達した聖職は任意退職が出来、68歳で退職が等しく義務付けられている)神戸教区に41年ぶりに退職聖職として復帰されることになり、来年4月より嘱託として神戸教区で勤務されることとなった。

 松尾師を派遣された八代主教逝去後、日本聖公会では忘れられたような存在であった松尾司祭を神戸教区が忘れず、その老後を日本での牧会に参与できる機会を作って頂いた神戸教区主教と常置委員会の英断に心から感謝申し上げたい。

 松尾司祭はアマゾンのトメアスー植民地にかって建設された「エリザベスサンダース村」のチャプレンとしても2年間勤務されたが、マラリアに罹り、サンパウロに戻られた経験も持たれている。

 日本聖公会は戦前、朝鮮、台湾、中国にはそれなりの結びつきがあったが、恐らく距離によるものであろうが、ブラジルの日系移民との結びつきは少なく、かって、故磯清司祭が聖公会神学院で、故小野謙蔵司祭が福岡神学校で、玉置正和司祭がウイリアムス神学館で勉学されたほか、ナザレ修女会の千代修女・順修女(現霊母)が数年当地の日系教会で勤務賜ったぐらいのものであった。

 今回、小生の按手・着座式に首座主教代理として、はるばる植田主教がご臨席賜ったことは、日本人として本当に晴れがましい思いであった。

 また、松尾司祭が41年ぶりに宣教師生活にピリウドを打ち、日本聖公会に復帰されること、また、松尾司祭が最後の20年間勤務された聖ヨハネ教会に日本聖公会より岡野主教が日本語会衆担当の嘱託として赴任して戴ける事になり、現在手続き中であることは、二つの聖公会の枝がこのような形で協働出来ることは心からの喜びである。今後も出来る限り祈りあい、協働の形を求めて参りたいと思う。感謝・合掌。