サンパウロ通信


2002年9月 レジストロの教会

 ブラジルのお茶の産地として有名なレジストロ市に日系人が入植したのは、もう80年ぐらい前であろうか。

 日本茶や紅茶が生産され、つい最近まで日本のお茶メーカーが進出し、日本に緑茶を輸出し、香りの高い日本産の緑茶とミックスして、大衆茶として日本で販売していたと言う。

 私の教会のレジストロ生まれの御婦人達はもう80歳近い方がおられるので、それぐらいになるものと思う。

 そして聖公会が入植地に伝道を始め、牧師を送り込んだのも入植初期であったと言う。

 その時日本人移住者によって建てられた教会堂がマンガルガという町から20キロ離れた旧植民地に現存する。

 日本人移住者の中に居た、宮大工経験者が建てた木造の教会はすっかり原森林に戻った中に、まさしく十字架をつけたお宮のような形をして静かな佇まいを見せている。

 既にこの地に信徒は一人も居ないが、礼拝堂は立派に保存され、毎年6月の開拓記念日にはその礼拝堂で記念礼拝が行われ、サンパウロからもこの地で少年時代を過ごした多くの旧入植者がかけつけ、盛大なバベキュウーが行われる。

 この教会の最初の牧師となったのは、ブラジル移住者として奥地で日本語教師をしていた磯清青年で伊藤大執事の呼びかけに応え献身、日本に戻り立教大学(当時は神学校も兼ねていた)で勉学後、東北教区で伝道師として働き、勤務していた教会で青葉学院出身の夫人と知り合い、結婚、ブラジルに戻り、レジストロの初代牧師として赴任した。

 開拓地の生活は困難を極め、新婚の夫人には便所がなく、森林の中で用を済ませなければならないことが一番辛かった、と晩年親しくしていた同夫人から伺った。

 その後、移住者がほとんどレジストロの町に移り住むようになり、教会も町に移り、現在に至っている。現在の教会員も8割は完全に日本語を解する日系ブラジル人であるが、磯司祭の後は日系聖職不足からこの50年は,数代に亘りブラジル人牧師が牧会している。

 今月訪れた時の礼拝後の歓迎会では、バベキューに混じって「チラシ寿司」や「太巻き」が並んでいた。

 50年間のブラジル人牧師の牧会にもかかわらず、会衆の殆どは日系人であることはどうした理由であろうか。

 小さい町なので日系人教会とレッテルを張られていることがブラジル人を敬遠させているのであろうか。

 私たちにとってはこの問題は深刻な問題でもある。というのも決してレジストロの教会だけの問題ではなく、殆ど全ての日系教会の問題でもあるからである。

 夜はレジストロから車で小一時間のエウロラードという町のバナナ畑のど真ん中の古い古い礼拝堂で聖餐式をした。この伝道所は完全なブラジル人達で、全員バナナ栽培者である。

 とにかく行けども行けども道の両側はバナナ畑で、道においかぶさるようにバナナがしなっている夜道をまた小一時間掛け、レジストロに戻り、教会員の金婚式のお祝いに出席した。既に大部分が3世4世にもかかわらず、料理はほとんどが日本食で、演歌のカラオケがなされていた。