そんなに力まなくても、この地で死んでいくのは間違いない。しかし、たった一度きりの自らの死にむかって、空元気でも良い「いざ死なん。この地にて」と、今あるあるがままの人生と、来るべき死を受容していく為にも自らに号令をかけてみたい。 この異国で生を終える事実を、自分で納得する為にも言ってみたいのである。それはやはり生地である日本を離れた、移住者の宿命なのかも知れない。日本で暮らした歳月の数倍に相当する何十年もの歳月を、この地で暮らしてきても、心の隅で異国に暮らしている、という意識を払拭出来ないでいるからかも知れない。私の知人で既に亡くなられたある婦人から、生前、「死んだらなんとしても、自分の髪の毛の一部でも良い、故郷の先祖の墓に納めたいのだが」、と相談を受けた事を思い出す。自分としては同じ事を望む気は毛頭ないが、しかし、心情としてはある程度分かる気もする。ひょっとして、異国に暮らす者にとって、故郷は母親の胎内の雰囲気を想起させる、忘れがたい存在であるかも知れない。なにか甘酢っぽい、それでいてなんとなく、安らぎを感ずる存在のようでもある。遠く離れているからこそ、故郷が美化されていることも確かにあろう。これは移住者独特のものか、あるいは日本に住んでいても、故郷を遠く離れて、生を終える者の共通の感情であろうか。いずれにせよ、やはり移住者のこの思いは、強いことは確かなような気もする。文化的に故郷と類似性が多いブラジル在のイタリア移民一世なども、このような故郷への憧憬を持ちつづけたまま、このブラジルで、生を終えるケースが多いのであろうか。それとも、そのような思いは、全くと言っていいほどないのであろうか。知りたい気がする。確かに個人の死は、客観的なものでなく、極めて主観的なものではあり、個人で解決するしか、方法がないことも確かであるが、異国で生を終える一世にとっては、かなりの意識の共通性はないであろうか。移住者にとって、ブラジルでの生活の、いわゆる成功、不成功とは、関係なく存在する意識の共通性はあるように思うが、どうであろうか。仮にもし、そのような意識の共通性があるとするなら、コロニアの日系紙や、種々の場での同人誌の類も、かなり重要な存在の意味を持ってくるように思う。特に日系紙のファンクションは、単に日本や、コロニア、あるいはブラジルの情報伝達手段としてのファンクションも、もちろん重要ではあるが、コロニア人の人生観、死生感などを共通の地盤にあって、共有しあう機会を提供する大切なファンクションを、担っているようにも思う。この意味で、日系紙に注文をつけるとするなら、単に「読者のルーム」的な場や、俳句や短歌、川柳といった文芸欄以外に、コロニアの多くの先駆者の生き様を深く掘り下げ、定期的に連載するような企画も、あって良いように思う。すべての人間が同じ環境で、同じ経験はする事はあり得ないとしても、人生経験の類似性はやはり、コロニア人には断然多いと同時に、その得がたい経験が私達に示唆する点も多いと思うからである。人間は自らの見識と所感を決して絶対化しない頭の柔軟性が存在するかぎり、自らの経験と感情に加え、他者の所見や、見識や経験が、自らの意識にポジチブに、影響を与えるものであると思う。この意味で人生観や、死生感は極めて個人的なものであると同時に、ある程度、客観性を持つものではなかろうか。特に故郷を後にし異国に移住し、家族を持ち、その家族と別れていく、という二度の別離を共有する移住者にとっては、その客観性が存在するように思う。多くの人はこのような別れの意味付けを、その人にとっての哲学や宗教や、あるいは芸術に、答えを求めているのかも知れない。これは限られた人の専有物ではなく、どのような人でも、迫り来る死の前で、それなりの、自らの哲学を持っているはずである。また、持たなければ人としての尊厳を持って、生きる事も、死ぬ事も出来ないはずである。私の愛読書に岸本英夫著の「死を見つめる心―ガンとたたかった十年間」がある。彼は高名な宗教学者であったが、宗教に関する学問的な知識はべつにして、特定の信仰を持てなかった人である。そして、晩年、ガンを宣告され、10年間にわたったガンとの闘病生活の中で、必死に死の恐怖と戦う。彼はその経験を「私には、死というものを、どう考えたらよいか、という問題が深刻になってきた。それをはっきりさせなければ、一刻も心を休んじていられないような問題である」と書かれ、「私にとっては、(死によって)自分が無になってしまうということは、考えただけでも、身の毛のよだつ思いがする」とまで書かれる。岸本教授は観念的にではなく、ガンという直接的な経験の世界で、死に怯えるのである。そして、彼はついに「死というのは、人間にとって、大きな、全体的な別れ、なのではないか」と気づく。そしてこの時、彼は初めて死を心から受容し、克服されるのである。この悟りは彼の個人的なものであると共に、また、生きとし、生ける者への彼の遺言でもあり、メッセージでもあるように思う。私達移住者も生まれ育った故郷を離れ、肉親や友人と別れ、この新天地に希望を抱き、移住してきた。その希望を達成したか、どうかの結果はあまり問題ではない。問題なのは新しい新天地で新しい人生を切り開くためにいかに戦ったか、というそのプロセス自体が重要であるように思う。そして、多くの人は家庭を持ち、子や孫を得た。そして、今、またこれらの者と別れて往くことを余儀なくされている。別れが避け得ないものであるなら、別離の悲しみを持ちつつも、雄雄しく別離を受容しきって旅立たなければならないと思う。個人的には死を表現するのに、「旅立ち」が最も適切であると思う。私達移住者はロマンチストと言われても良い、新しい天地に、新しい生活と人生を求めた開拓者である。この誇りだけは、どんな事があっても、失うべきではないと思う。この意味でも移住者一人一人は過去において、故郷を、肉親を、友人に別れを告げ、新天地に旅立つ勇気を持ったのである。多くの移住者は肉親の保護も、いたわりも受ける事もなく、自らの両腕で、それこそ汗と涙で、その人生を切り開いてきたのである。たとえ、その切り開いたものが、世間でいかように評価されようとされまいと、その事はあまり問題ではない。今、一世の多くは死に直面せざるを得ない年齢を迎えるようになって、再び旅立つ勇気と気概が必要ではなかろうか。どのような事があっても、開拓者としての自らの歩みに対する誇りを失ってはならないと思う。以前、知人がある日、病院に定期的な診察を受けに行った。そして内臓の重大な疾患が発見され、直ちに緊急入院させられ、そのまま二度と我が家に戻ることもなく、旅立った。亡くなる直前に、彼を「集中治療室」に見舞った時、彼は泣かんばかりに「私はどうして、こんなブラジルに来たのだろうか」と言った。子供を授からなかった寂しさはあったとはいえ、彼は世間的には、社長を務めたいわゆる成功者でもあった。既に旅立った者に鞭打つことは避けたいが、しかし、どうして、彼は終えようとしている自らの人生に対する誇りを、持ち続け得なかったのか、非常に残念に思った。ここで思い出されるのはNHKの朝の連続ドラマで、だいぶ前に放映された「すずらん」の一駒である。主人公の「萌」が生涯の宿敵である「橘竜蔵」と対話するシーンである。「橘」「一体、お前のどこにあんな強さがあるのだ」「萌」「私は強くはありません。ただ、誇りがあります。私は富も名誉もない、名も無き人間です。でもどんな時でも、だれの前でも自分の歩んで来た人生を誇れます。人としての誇りだけは大切にしてきたつもりです」。自分の歩んで来た人生を誇る事ほど、人間の尊厳を維持し、迫り来る肉体的な、精神的な老いをカバーしつつ、強靭な精神を自らに取り戻せるものは無いはずである。今、自分の人生を振り返り、なにかがある、どれだけあるかという、質や量が問われるのではないと思う。一番大切なのは、われわれ移住者が歩んで来た人生そのものが重要であり、誇り得るものであると思う。人生という勝負にあって、運があり世間的に言う成功を勝ち取り得たことも、また、運が無く成功から程遠いところに居るかも知れない。しかし、尊いものは、そしてわたし達が誇らなければならないものは、「萌」の言う「歩んで来た人生」そのもののはずである。子や孫に残せるのも、決して物質的なものが重要ではなく、親が祖父母が生きてきた人生そのものが、子供達への、孫達への遺産でなければならない。内村鑑三の表現を借りれば、だれもが子孫に残せるものは、「高尚な人生そのものが、後世への最大の遺物」となる。この「萌」の言葉を還暦を今、過ぎた自らに言い聞かせると共に、コロニアの旅立ちを間じかにした一人一人への「応援歌」として伝えたい思いがする。 「完] |