首座主教会議




カンタベリー大主教Rowan Williamsと

カンタベリー大主教Rowan Williamsと


首座主教会議雑感

どんな風の吹き回しか、聖公会の首座主教会議がブラジルで開催されることなった。ブラジル全体で聖公会員が10万人を僅かに超えるだけの勢力であるに過ぎず、その影響力は限られており、なぜ、今、ブラジルで、という疑問もあったと思うが、ラテンアメリカで最初という大義名分で押し切られた形でなんとか首座主教会議が終了した。担当者にとっては本当にご苦労さんの毎日であったろうが、終わってみて何のためにブラジルの避暑地に全世界の首座主教を集めて会議する必要があったか、は返答されずに終わったような気もする。残念ながら当地のマスコミの注目を得ることもなく、アングリカンにとって僻地であるこのブラジルで開催されたことの意味が定やかにならないまま、終わったような気がする。もちろん、討議された内容に関しては関知しない者の独り言ではあるが・・・

しかし、お相伴という奥ゆかしい日本語の言葉があるが、一介の聖職がカンタベリーの大主教や米国聖公会の総裁主教と夕食会や礼拝の合間に個別に親しく話せたことはお相伴冥利に尽きるであろう。気恥ずかしさを抑えて、大主教と二人だけで写真を撮ったが、大主教は灰色のシャツに木の十字架だけでおまけに肩にバッグを提げ、私は紫のシャツにこれまた銀製の大きな十字架を古式豊かに提げている。服装だけ見るならどちらが大主教かわからない。

かなりミイちゃんはーチャン的表現や発想で、顰蹙を買うかもしれないが、現在のカンタベリーの大主教はもともとそうなのか、それとも意図的にそうなさっているのかわからないが、従来の大主教(前々大主教と前大主教はいずれもブラジルを訪問されており、垣間見ている)に比して、珍しいほど気さくな方で、なんだか「この人が」という俗っぽい表現をしたくなるようなその辺のおっさんであった。もちろん神学者として著名な方であることは知ってはいるが・・・とにかく権威ぶらず、著名人ぶらず飄々とした禿と髭のおっさんであった。英国の聖公会がわざわざこのような学者肌の権威ぶらない方をカンタベリーの大主教に選んだことは英国人の時代を見つめた英知なのであろうか。

内容の伴わない権威に対するアンチテーゼとしてのわざとの選出であったとするなら、今の時代の内容が伴わない形骸の権威への警告であり、またやれ主教だ、大主教だ、とその職務の持つ本質的な機能を差し置いて、見せ掛けの権威に固執する我々への警告なのであろうか・・・